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楢山節考を見て母を思う


最近昔の邦画がテレビで次々放映されるようになったのでよく観るようになった。
その一つ、「楢山節考」は二度も見た。

見えないほど霧で霞んだ山深くを老母を背負って上って行く息子・・

今の世の中では考えられないような口減らしの為に、育ててくれた親が70歳になった時、山へ捨てに行くという事実が本当に日本にあったのだろうか。

息子は行き着いた先に母親を置いて、うしろを振り返らず泣きながら山を下りて行く。
何と哀しいことだろう。

年をとった者は汚くもなり、まるで生きている価値さえもないように思われがちだ。

わたしの母も高齢まで生きた。
最後の半年間は緊急の痙攣の症状をきっかけに総合病院に転送されたが、元気な時には家に居て次第に衰えていく母の姿を見るのは何とも寂しかった。

母は私を一人で生んで大切に守り育ててくれた。

転送先の病院では痙攣を止める注射のせいでほとんど眠っていたが、時々眼を覚ましているその状態のとき、わたしの夫の名前を○○さん知ってる?と問うたら、大切な人、と応えた。

個人病院で入院していて少し呆けかけたとき、わたしが霧子よ、と言ったら、違いますと言った。
「うちの霧子はがいなけんど、あなたは優しいから違います」と。

わたしの家の老人たちは皆呆けてからも夫のことを優しい人と言っていた。

たしかに夫は老人達にもてた。
勤め先ではお婆さんのファンが居て、時々ウィスキーのプレゼントをもらってきていた。
アル中の夫を持つ奥さんは毎朝夫の出勤前に電話を掛けてきて愚痴を訴えていた。
夫は出勤ぎりぎりまでゆっくりその奥さんの話を聴いてあげていた。



母がいよいよ老衰の時期に掛かる頃、株券が失くなったと言い出し、ノイローゼのようになって毎日金庫の前に座っていたことがある。

警察に紛失届けに行けばいいと言われ、孫娘が帰省してきたとき役所に書類をとりに行って揃えてくれた。
母はその書類の手続きを夫にお願いしますと渡したようだが、夫はなかなか警察へ行かなかった。

母が何度目かに夫にその話をしたとき、夫は大声で怒ったと、初めてあんなに怒られたと辛そうにわたしに話した。

何故わたし自身が行かなかったのだろうと後で思ったけど、その頃わたしは事務的なことをするという感覚が全くなかった。
母があまり病的に見えたのでわたしが行くことにしたが、その時には書類の期限の3カ月が過ぎていたので叉役所へ取りに行かなければいけなかった。

警察で紛失届を出して、証券会社に株券の再発行の申請をしたら、数ヶ月して新しい証券が届いた。
母はその時初めて、やっぱりわが子やな、と相当私に感謝していたようだ。



母が入院したとき、丁度夫も病気療養中だったので、わたしが一人で毎日病院へ何度も通った。
親戚も居らず世話をする者はわたしだけしかいなかった。
完全看護だったけど身体を拭いたり何かと監督をしたほうがいいと思った。


わたしは少しボケた母が可愛いと思って何でも言えるような気がした。
「あーちゃん、好きよ」と言ったら「私もあんた好きよ」と言った。
でももしかして、わたしのことを私の娘と間違えていたのかもしれない。


母が死ぬ夜には次女も遠くから帰省していて、夫と三人が病室で明け方まで見守っていた。
あまりのしんどさに早く何とかして、と思うぐらいに遅々として呼吸はゆっくりとペースを緩めて行った。


葬儀は母屋の二階の10畳二部屋を使い、祭壇を組んでもらった。
病院から連れて帰った時、小さくなった母を縛った紐を解いて、祭壇の前に敷いた布団に寝かせていたら、葬儀屋が来て御棺に入れましょうかと聴いてきた。
夫は早く入れるように葬儀屋に伝えていた。

葬儀屋は化粧を施し白装束を着せた後、早々に母の遺体を御棺の中に入れた。

長女が帰ってきたときには、母は御棺の中の顔しか見ることができなくて、一言私が帰るまで入れて欲しくなかったと言った。
そのとき私は何故そのようにお願いしなかったのだろうと悔やまれた。



わたしは葬儀に呼ぶ人にも気を遣った。
年老いた母の死を知らせて大勢の人に迷惑を掛けるのではないかとも思ったし、華々しくするのは夫の機嫌を悪くするような気がしていた。

ほとんど知らせなかったにもかかわらず、どこから耳に入ったのか、わたしの知り合いと生家の近所の人など、座敷から廊下にはみ出すほど沢山の人が来てくれた。

入院中時々来てくれていた看護婦さんや友人知人にも知らせなかったので、後からみんなお参りにきてもらったが、その時わたしは思い違いをしていたと思った。

友人からはわたしの友達にはそんな人はいない、と怒られた。
わたしは世間知らずだったと本当に後悔した。
最後のお別れをしたいと思っていた人に声を掛けないというのはとても失礼なことなのだと今は思っている。


長女が、自分の親なんだから思うようにすればよかったのに、と言った一言が忘れられない。
わたしがもしも男の子だったら、多分盛大な葬儀をしたことだろう。

でもそれでいいのだとわたしは思うことにしている。
いつまでも母はわたしの胸の中に生きている。

わたしがもっと年をとって死ぬ時には、やっぱり娘達には自分の思い通りのことをして見送ってもらいたいなと思う。
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