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遠いひと

武子がその電話を受けたのは平成24年の七月のことだった。
事は、同級生の冨士夫が君の家に行ってもいいかとメールが来て、その日の午後立ち寄ったことに始まる。
 
 冨士夫はこれまで二年毎に催される同級会で顔を合わせても、兄貴に悪いからと武子に近づいてこなかったが、武子の夫が亡くなってからは時々メールをしてくるようになっていた。

「兄貴が病院に入院してるんだ。武子の家と近いと思ってさ、思い切って寄らせてもらったんだよ」冨士夫は武子の家に着くなりすぐにそう言った。
「お兄さん、どこが悪いの?」
家のすぐ傍の病院にあの人が入院しているなんて……、武子は冨士夫の告げる思いがけないニュースを聞いて、これまで自分とはもう無縁の、遠くに霞む存在がすぐ眼の前に現れたような錯覚を覚えた。
「命に別状はないらしいんだけど、骨が悪いんだって。相当痛むらしいよ」
「骨って……、どこの?」
「股関節だよ」

 
 武子が冨士夫の兄秀隆と出会ったのは20歳の時だった…30年前に武子の元から姿を消したあのとき。それ以来ずっと秀隆の面影は武子の胸の中では消えずにいたのだ。
 武子は一目だけでもいいから会いたいという気持が募ってきた。病院に行くわけにもいかない。奥さんがせっせと病院に通って世話をしてるんだろうな。冨士夫が帰りの電車の中から寄こしたメールによると、病院に寄った時奥さんが来ていたということだ。

 武子は秀隆の奥さんの顔を知っていた。目鼻のはっきりした腰の低くそうな女性で、自分とはおよそ別のタイプのような気がしていた。武子は初めてその奥さんを見かけたとき、世界中で一番幸せな女性だとさえ思ったものだ。

「兄貴には武子の電話番号を知らせたからもしかして電話があるかもしれないよ。でも僕がここへ来たこと黙っていてくれよな」と言ったことと、「兄貴には会わないほうがいいよ。昔とは全く別人なんだよ。武子が会ったらきっとがっかりすると思う…」
 武子は得意げに何度もそう言う冨士夫の言葉を思い出していた。

 
 八月に入ると、朝起きてすぐエアコンの冷房を入れ、夜が更けて熱気が冷めるまでずっとその冷気の中で過ごさずにはいられない猛暑の日が続いた。
お盆に合わせて娘が孫を連れて里帰りしてきた。武子にとってたった一人しかいない小1の孫は、目に入れても痛くないほど可愛くてたまらない。まだババと言われるには若い武子だが、孫がババ、ババとまとわりついてくるとうれしくて目じりが下がってしまうのだ。
 夏休みで武子の家に滞在している間は、毎日プールに行くのが日課になっていた。武子も水着に着替え一緒に子供用のプールに入って監視役をつとめた。そんな日が二週間ほど続いて、学校が始まる二三日前に孫は娘に連れられて帰っていった。

 
 ひとり取り残されて武子の心はぽっかり穴が開いたような気分だった。朝早くから庭の木立から耳をつんざくようなミンミン蝉の声が洪水のように流れてくる。
お盆が近づくと友達の家にも遠くにいる家族が帰ってきて忙しいらしく彼女らに暫く会っていない。時々カフェでお茶している比呂子は今年も年老いた主人に付いて北海道で避暑をしまだ帰っていないらしい。


 そんな日の午前中。リリーン……突然パソコンデスクの横に置いてある電話の子機が音高く鳴った。
「もしもし……」待っていたかのような声が電話口から流れた。
「あ、秀隆さんね……」武子はすぐにその声の主がわかった。あの時とちっとも変らない、まるで喉越しを通るソーダ水のように快い声だ。
「おー、そうだ」まるで昨日別れたばかりのようなその応答に、武子は少し戸惑った。秀隆は続けて言った。
「かけようかどうしようかと随分迷ったんだよ。病院からすぐだね、知らなかったよ」
冨士夫から聞いていたので、秀隆の年老いた様を想像はしたものの、どんな姿になっていたとしても一目会いたいと武子は思った。


 秀隆から電話があった数日後、冨士夫からメールがきた。メールには八月末にもう一度病院へ行くのでその時立ち寄ってもいいかというものだった。
武子は冨士夫のそのメールに返信をした。『もうメールの返事はできません。ごめんね』
八月の武子の誕生日を待って、冨士夫から最後のメールが来た。
――お誕生日おめでとう。これから楽しい人生を送ってくださいね――。

冨士夫が武子の家に来たすぐあとの同級会に、冨士夫は出席しなかった。



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この物語は小説投稿サイト「時空モノガタリ」に投稿した作品です。文字制限が2000文字となっています。

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