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2014. 01. 31  
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最近けっこう再々電話を掛けてくるお爺さんがいる。
自分より年上なのであえてお爺さんと呼ばせてもらおう。

その人は時々、どうせみんな溶けて無くなるのだから……と自分ではさも哲学的なことを言っていると錯覚しているのか、偉そうにそう言う。


私が23歳のとき私の母親が手紙を書いて、或る場所で私を見かけてから何度かうちに来たり私を連れ出したりしたことがあったが、ほんの数回そういうことがあっただけであっという間に私から離れて行った。

若いときにはとても良い感じの体育会系の好男子だった。
その人が私から離れても、私はそのイメージはずっと持ち続けていて、死ぬまでに一度は会ってみたいと思っていた。


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去年夫が亡くなった後、私の馴染みでもある彼の弟が私の電話番号を知らせたらしい。
最初会ったとき彼は感動して、私が生きていてよかったと何度も繰り返した。それ以来電話をして来るようになり、彼の頭はたちまちにして数十年前にタイムトリップしてしまったらしい。

私が今でもまるで23歳の可愛らしい純情な娘のときの心のままでいるかのように思ったようだ。


私だって、ちゃんと夫を持ち妻となり、子供を産んで母となり孫が出来て婆となっているのだから、決して彼の境遇に引け目を感じることはなかった、それどころか今は篭りがちな生活をしている彼に比べて、私はネットの世界を知り老若男女大勢の人達から色々な知識をもらって、うんと感性が上がっている。


話していると、ネットの友達と話しているようにスムーズに話が通じず、私の言うことをいちいち反対したり拒否したりする。自分なりに威張っているつもりなのだろうが、時代遅れの感性でもあるようだ。

そのことに少しは気付いてきたのか、最近は威張ることはなくなったが、双方の温度差がかなりあることにお互い気がついている。

人は若い時に幼稚であっても、何年か経てば色々な経験をし知識が積み重なって、別人のように成長している場合もある。
高校の時の同級生は私のことを、純情一途で四角四面だと今でも思っている女性達がいるようだ。


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話を戻すと、今の私は前を向いている。
向上心のある人の話を聞くといきいきしてくる。
自分の知らないことを教えてもらえるひとと話していると元気になる。

音楽でも、同じ曲を楽しめる波長の人と会話していると話が弾んで楽しくなる。


娘はそのお爺さんの話をすると、明日の命もわからないのだからあまり邪険にしないほうが良いよ、という。
確かにそうそう私に目を向けてくれるような奇特な人はいないのだから、私の我を爆発させないように努めて自分を抑えようとは思っているのだが……。

やはり私は若々しいいきいきした話をする人が好きで、できれば詩や小説の創作の話ができる人は尚更いい。

茶飲み話を好む近所の奥さんらとの話も時には良いけれど、やっぱり私は人とちがうようだ。

人と違う者は独りでいる時間が必要なので、孤独に耐えなければいけない。

「孤独って良いことなんだよ」と教えてくれた人は今私の傍にはいないけれど、あの人のあの言葉は今でも私の心を温めてくれている。


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2014. 01. 30  
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photo by S.Hashizume



この間投稿した現代詩フォーラムの詩に対する女性からのコメントに、
……他の人の詩をいつも読まれていて、詩が随分巧くなりましたね、感心します……と書かれていた。

前にも同じ人のコメントに同じことが書いてあったような気がする。


誰も巧いとか下手だとかは批評してくれないが、私は自分の詩を巧いとは全く思っていない。

「合歓の花」という詩のブログを書き始めた頃には、多分相当下手だったのだろうなと思う。

別の場所で話をしていた女性にも同じようなことを言われた。
最近巧くなったわね、書いていれば巧くなるってことわかったわ……と。


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なにしろ自分は創作とかいうことをしたことはなかったのだが、現代詩フォーラムに投稿している人は長い年月、詩を書いている人が多く、その方たちの難解な内容の詩の意味がわからないでいる。


数年前から他人の真似をして愛の歌を書き始めたが、巧いと言われたことは一度もなかった。

つまり情熱的に表現しようとしても、清潔な表現で書こうとして或る時点で感情を止めるものだから、読者の琴線に触れる何かが足りないのだと思う。


2000文字に限定された短編小説投稿サイトで他人の作品を読むと、自分には到底書けないと思うぐらい巧い人はとても巧い。

詩も小説も真似したり学んだりして書けるものではないので、巧くなるのは縁遠い話である。





2014. 01. 28  
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今日の気温は16℃。室温は暖房なしでもそれ以上ある。
あいにく石油ストーブの電池が無くなったのか火が付かずエアコンを入れていたが暫くは切っていても大丈夫そう。

いまいちめまいのほうが落ち着かず、昼間はふつうに家事をしているが、犬の散歩をしたり遠くまでドライブしたりするほど自信がないので家でゆっくりしている。

さてここで、日記を書くつもりはないのだけど、今日はうちの木から採った檸檬で作ったレモンティーのことを書こうと、いくつかあるブログの中でここを選んだ次第。


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別棟の玄関の丁度前には檸檬の木があるが、毎年生っていたのが最近では隔年にしか生らなくなった。

生り年には50個ほど鈴なりに生ることもあるが、今年はならない年なのか、でも少しは生った。

黄色い檸檬のまあるい玉がいくつもぶら下がっている様子を、年末に孫が帰った時見せてやろうと、採らずに置いていたが、孫も娘も檸檬にはたいして興味を示さなかった。

正月以来そのままで生っているのを、人が来られると一つか二つあげたらものすごく喜ばれた。
それほどふつうの檸檬とは違う形とサイズ。

このまま二月を迎えていては今年の生りに影響するので、毎日自分がホットレモンにして飲むことにした。

大きなカップに檸檬一個の果汁を絞り、それに地元産の蜂蜜を大匙山盛りいっぱい入れるがそれでも果汁が多いのでそれほど甘くはない。

フランスパンをカリカリに焼いて、生協のとろりとしたブルーベリージャムを塗った一切れを添えた。



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ここからが始まり……。

数年前に長女が度々帰省していたころ、それは母が生きていたからだと思うので多分13年は経っている。
そのとき庭にテーブルを置きましょうということで、ホームセンターで白木の丸いテーブルと長椅子を買ってきた。

白木はすぐに腐るからと防腐剤を塗ることに……。
その防腐剤が臭いの、臭いの、ったらありゃあしなかった。

でもわずか二日の滞在期間に長女は頑張って塗り上げた。

そのテーブルはその後、庭でバーベキューしたりしてとても役に立った。


いつの間にか月日が過ぎて……、テーブルは表面の板がバラバラになり壊れてしまった。

それを直す人もいなくて、長い木の椅子だけが残っている。



今私のいる部屋の窓の軒下に置いているが、時々枕を干したり自分が座ったりする。

今日はとても良いお天気で、まだ体調がすっきりしないので散歩より家で日向ぼっこをしましょうとこの椅子を少し前にずらして、座布団を敷き、そこでティータイムを楽しんだ。

空を見上げたら真っ青な青空が広がって風もなく、とても快適。

トラが傍に寄ってきて、私がいることで満足しているような顔をしている。

やっぱりお天気が好いと気分も晴れる。

2014. 01. 25  
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photo by S.Hashizume


これまでずっと自分以外の親しい人達がとても安定しているのをみてきて、心の中まではわからずとも側から見た限り羨ましい気がしていた。

女性の友人でさえ、あまり内面を露わにする人は少なくて、実にさらっとしていた。
自分がそういう友人を選んで付き合っていたというふしもあるのだが……。

私にはそういう人らは喜怒哀楽さえないかのように、いつも穏やかに見えた。

その反面、自分だけがいつもやたら色々な思いがごった返していて嫌だなあと思っていたのだが、そういう湧き上がる感情をとめることができなくて厄介な自分をもてあましていた。

何事に於いてもふつうから上でも下でも凸凹は心を刺激し、しんどいものだ。
うれしいことがあればそれが終わったときの虚しさがあり、哀しいこと寂しいこと恐怖なことなどはそれ自体がちくちくといつも心を刺激する。

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何かクリエイティブなことに挑んでいる人たちにとっては、そういうことが効果をもたらすこともあろうが、私のようなふつうの者にとってはそういう刺激は意味はなく、いたずらに憂い気持をもたらすだけだ。

いかにそれらの凸凹を失くして平らな心でいられるかが、長年の念願であった。


最近少しそういう平らな気分が感じられるようになっているような気がする。

色々ある凸凹の中でいちばんもてあましていたのは、「執着心」だった。

特に人に執着する気持は相手との温度差を感じて情けないなあと思いつつ、いちど嵌りこんだらそこから気持を切り変えることができずにいた。

仏様ではないのでいっさいの執着から解き放たれるのは無理だろうが、ほんの少しでもそういう気分を味わえたときはしあわせだなあと思う。




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子供が学校へ行くことを拒否していたころ、自立への道を教えるテキストを読んで知ったことがある。

それは基本的に「自由」と「温かい環境」以外にはないということだった。

*なにかに縛られた環境から自由という空間に解放してやる、*温かいきもちで包んでやる。


私の家族はみなが一体になってそういう環境作りに努力していた。

そうしている内に次第にほぐれていった未熟な子供の頑なな気持……。

そして長い年月を経て、自ら自分探しの旅を始めたのだ。


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大人でも同じことがいえる。

なにかに束縛され愛に飢えている環境の中では、たとえ理論を学んだとしても真なる心の安定は得られない。いつも凸凹の感情に苦しむことになるのだ。

満足のいくまで愛情が充たされていれば人を恋うて執着することもないだろうし、束縛を受けていなければびくびくして何かを恐れることもなくなるだろう。


これまで私がふしぎに思うほど平らな心を持っていた友らはみなそういう環境にいたのだろうか。
私自身とは温度差があるように感じていたのもそのせいなのだろうか。

異常に人を恋うることも、怒ることも妬むこともなく暮らせる日がすぐそこに来ている。
まことに喜ばしいことである。






2014. 01. 22  
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これまでずっと自分の作品を書くだけで精いっぱいだった。

ところが詩の投稿サイト「現代詩フォーラム」に投稿すると、他の作者がポイントを入れたりコメントを書いてくださる。そしてそのポイントやコメントをした一人一人に対して、お礼を書いている人さえかなりいた。

私は次第に他の人の詩にコメントを書くようにしたいと思い始めた。
自分自身がコメントをもらうととてもうれしいからだ。

コメントをしようがないほど意味不明な詩に対してはポイントを入れるだけにしたが、大概の詩には感動したこと、詩の内容に共感したことについてコメントを書いている。


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今年からは更に自分の詩にポイントやコメントを入れてくれた人にお礼を書くことにした。

お礼のコメントを書くには、書くページが別になるので名前を見るのに確認が必要で二つのページを交互に開けて書かないといけない。

自分がそうし始めて、今までお礼を書いて下さっていた方がこんなにも手間を掛けていたんだということがわかった。
何ごとも自分がやってみて初めてその苦労が分かるものだ。


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現代詩フォーラムだけでなく、その他SNSの日記にしても、いつも見て下さる人には必ずその方の日記にコメントを書いている。
知り合いの中にはブログを書いている人はほとんどいないが、ブログを書き始められた方には拍手だけでなくなるべくコメントも書くことにしている。


中にはSNSの日記やブログで、コメントに対してのRe.コメントをされない方もいるが、それぞれのやり方なのでそういう場合でも自分はなるべくコメントを入れている。


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自分のブログの中には「コメント拒否」に設定しているブログもあるが、それはそれなりの理由がある。

「合歓の花」という自分の詩と、写真サイトから選んだり自分が撮った写真と、you tubeから選んだ音楽のコラボのブログだが、全く感覚のずれたコメントが入っていることがあった。

特にfacebookにシェアして載せると、奇妙なコメントが……。

例えば……、詩をアピールするつもりのブログなのに、*いつもいい音楽をありがとうございます、とか、空想の世界で詠んだ詩に対して私個人のことと重ねた内容のコメントを書かれたりするととても困るのだ。


私のブログで音楽を聴くのが楽しみだと知人は言うのだが、それはそれなりに……という気持でいても自分としてはうれしくない感想だ。


以前は他の随想や小説のブログにも音楽を流していたのだが、現在は音楽は入れないことにした。

随想のブログでさえも、――今年も素敵な音楽を聴かせてね、とのコメントがあったので、そういう場所じゃないでしょという気になって貼るのをやめることにした。


自分が楽しむ為に作っているブログなのだから、一度公開したものを読者にどうこういうこともないのだから、これからは自分の意思が通るやり方で書いていきたいと思う。