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2012. 08. 31  

最近昔の邦画がテレビで次々放映されるようになったのでよく観るようになった。
その一つ、「楢山節考」は二度も見た。

見えないほど霧で霞んだ山深くを老母を背負って上って行く息子・・

今の世の中では考えられないような口減らしの為に、育ててくれた親が70歳になった時、山へ捨てに行くという事実が本当に日本にあったのだろうか。

息子は行き着いた先に母親を置いて、うしろを振り返らず泣きながら山を下りて行く。
何と哀しいことだろう。

年をとった者は汚くもなり、まるで生きている価値さえもないように思われがちだ。

わたしの母も高齢まで生きた。
最後の半年間は緊急の痙攣の症状をきっかけに総合病院に転送されたが、元気な時には家に居て次第に衰えていく母の姿を見るのは何とも寂しかった。

母は私を一人で生んで大切に守り育ててくれた。

転送先の病院では痙攣を止める注射のせいでほとんど眠っていたが、時々眼を覚ましているその状態のとき、わたしの夫の名前を○○さん知ってる?と問うたら、大切な人、と応えた。

個人病院で入院していて少し呆けかけたとき、わたしが霧子よ、と言ったら、違いますと言った。
「うちの霧子はがいなけんど、あなたは優しいから違います」と。

わたしの家の老人たちは皆呆けてからも夫のことを優しい人と言っていた。

たしかに夫は老人達にもてた。
勤め先ではお婆さんのファンが居て、時々ウィスキーのプレゼントをもらってきていた。
アル中の夫を持つ奥さんは毎朝夫の出勤前に電話を掛けてきて愚痴を訴えていた。
夫は出勤ぎりぎりまでゆっくりその奥さんの話を聴いてあげていた。



母がいよいよ老衰の時期に掛かる頃、株券が失くなったと言い出し、ノイローゼのようになって毎日金庫の前に座っていたことがある。

警察に紛失届けに行けばいいと言われ、孫娘が帰省してきたとき役所に書類をとりに行って揃えてくれた。
母はその書類の手続きを夫にお願いしますと渡したようだが、夫はなかなか警察へ行かなかった。

母が何度目かに夫にその話をしたとき、夫は大声で怒ったと、初めてあんなに怒られたと辛そうにわたしに話した。

何故わたし自身が行かなかったのだろうと後で思ったけど、その頃わたしは事務的なことをするという感覚が全くなかった。
母があまり病的に見えたのでわたしが行くことにしたが、その時には書類の期限の3カ月が過ぎていたので叉役所へ取りに行かなければいけなかった。

警察で紛失届を出して、証券会社に株券の再発行の申請をしたら、数ヶ月して新しい証券が届いた。
母はその時初めて、やっぱりわが子やな、と相当私に感謝していたようだ。



母が入院したとき、丁度夫も病気療養中だったので、わたしが一人で毎日病院へ何度も通った。
親戚も居らず世話をする者はわたしだけしかいなかった。
完全看護だったけど身体を拭いたり何かと監督をしたほうがいいと思った。


わたしは少しボケた母が可愛いと思って何でも言えるような気がした。
「あーちゃん、好きよ」と言ったら「私もあんた好きよ」と言った。
でももしかして、わたしのことを私の娘と間違えていたのかもしれない。


母が死ぬ夜には次女も遠くから帰省していて、夫と三人が病室で明け方まで見守っていた。
あまりのしんどさに早く何とかして、と思うぐらいに遅々として呼吸はゆっくりとペースを緩めて行った。


葬儀は母屋の二階の10畳二部屋を使い、祭壇を組んでもらった。
病院から連れて帰った時、小さくなった母を縛った紐を解いて、祭壇の前に敷いた布団に寝かせていたら、葬儀屋が来て御棺に入れましょうかと聴いてきた。
夫は早く入れるように葬儀屋に伝えていた。

葬儀屋は化粧を施し白装束を着せた後、早々に母の遺体を御棺の中に入れた。

長女が帰ってきたときには、母は御棺の中の顔しか見ることができなくて、一言私が帰るまで入れて欲しくなかったと言った。
そのとき私は何故そのようにお願いしなかったのだろうと悔やまれた。



わたしは葬儀に呼ぶ人にも気を遣った。
年老いた母の死を知らせて大勢の人に迷惑を掛けるのではないかとも思ったし、華々しくするのは夫の機嫌を悪くするような気がしていた。

ほとんど知らせなかったにもかかわらず、どこから耳に入ったのか、わたしの知り合いと生家の近所の人など、座敷から廊下にはみ出すほど沢山の人が来てくれた。

入院中時々来てくれていた看護婦さんや友人知人にも知らせなかったので、後からみんなお参りにきてもらったが、その時わたしは思い違いをしていたと思った。

友人からはわたしの友達にはそんな人はいない、と怒られた。
わたしは世間知らずだったと本当に後悔した。
最後のお別れをしたいと思っていた人に声を掛けないというのはとても失礼なことなのだと今は思っている。


長女が、自分の親なんだから思うようにすればよかったのに、と言った一言が忘れられない。
わたしがもしも男の子だったら、多分盛大な葬儀をしたことだろう。

でもそれでいいのだとわたしは思うことにしている。
いつまでも母はわたしの胸の中に生きている。

わたしがもっと年をとって死ぬ時には、やっぱり娘達には自分の思い通りのことをして見送ってもらいたいなと思う。
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2012. 08. 30  
人は生きている限り突然思いがけないことに直面する。
その直後は面食らって何をどうしていいか分からず、傍にいる人に取り縋ってみたりそれが駄目なら内に篭って出られなくなったりする。

 どうにもならないから打ちのめされているのであって、誰かが手を差し伸べてどうにかなるぐらいならとっくの昔に見通しが付いているはずだ。

 結局ある時自分がしっかりしなきゃという諦めが決意となって、他者に助けを求めていた気持ちを自分の中へ引き戻す。

 独りになってみるとパニックになっていたときには気付かずにいた《自分は真っ暗なトンネルの中に居るのだ》ということを思い知る。
そのトンネルは人も来ない長くて細く、物音もしないトンネルなのだ。
トンネルの中には灯りはなくその行く手には抜ける先が見えないのだから、目の前を見つめてまっすぐ歩を進めるしかない。

 この時初めて・・あー神様、助けてください――と必死で祈り、我(が)を捨てて求めれば自己の中に神の概念が宿る。毎日変わらぬ停滞した時間の中で彷徨いつづけ、その結末がどうなるのかいつまで続くのか、わかりはしないのである。

そこで人はどうするか。
自己を見つめる内省の期間が長ければ長いほど、心の中の熟成は高い質のものになる。

絶望して死を選ぶ者もいるだろう。
少しずつ地下で冬眠していた生き物が目を覚まして這い出すように生き延びるやつもいる。
 一度堕ちた穴から這い出すには蜘蛛の糸でもない限りなかなか地上には上がれない。
世間はその者を見下し軽蔑の視線さえ向けて必死で抹殺しようとするだろう。
 
だが熟成の期間に物言わずとも――負けるもんか、今に見ておれ!という気概が生まれればしめたものだ。

 篭っているときに溜めた腹力が結末を左右する。
 がんばれ!
 
 見守り隊は念力で守る。
 それが最高の愛なのだ。



2012. 08. 20  
その1

うちほど仲の悪い同居人はいないのではなかろうか。
呉越同舟その名の通り、昔から喧嘩ばかりしていた。喧嘩しながら子育てをしたのだから子供はすくすくと育つわけもない。
それはおまえのせいだと叉喧嘩が始まる、というか、もうこの時点では一人相撲のようなもので何があっても、《おまえが悪い》の一言で家の中は大荒れ・・・一人は荒れるは、一人は避難するわでまさに戦時中のようなもの。
そして育った娘達。

『お父さんとお母さんは仲が悪いもの』と思っていたらしい。
大きくなってしみじみと言うことには、《相性が悪かったね。》
その一言で子供に放り投げられそれぞれが頑張って生きていく以外なくなった。

そういう次第で外様にもそう見えるのなら味方をしてくれる人が現れるかもしれないものを、そうは見えなかったというのが叉悔しい限りだ。


その2

娘が結婚式を挙げたのは東北。

当時よそ様のお宅で気を失うこと六回の果てに、とうとう大病で倒れた。
そういう状況の中、どうしても娘の結婚式には参列したいという。
無理じゃなかろかと心配したが、思い切って東北行き*ふたり旅*を決行することに相成った。

何しろ東北までは遠い。更に東京駅から東北新幹線への乗り換え。
行ったことのない者が先を歩き誘導するのだから、病人を気遣っている暇などない。


東京駅はプラットフォームから下へ下りる階段の多いこと。
出口を探してキョロキョロしながら先に立つわたしの後ろから《おきりさ~~ん!》の呼び声が響き渡った。

振り返れば両手に荷物を提げて階段を下りるひょろひょろ男が必死で叫んでいた。
大勢の人がいる中でまるで映画のお上りさんのシーンの如く・・

人間の名前に「お」をつけると仲良しのように見える。


その2

――そして数年後。

叉倒れた。
「おきりさ~ん!」私の寝ている部屋の窓の外から助けを求める声。

慣れとる。任しといて!

何回も何回も倒れて、救急車呼ぶにもドキドキなどせんかった。
落ち着き払って救急車に乗せられる後ろ姿を見送る。
そして準備している入院用具を確かめて病院の救急室の前で待つ。

この病院はもう我が城のようなもの。
院内に入ると懐かしい匂いがする。


その3

三度目に倒れたのはわたしが旅立つ日だった。

早朝に準備して声を掛けようと部屋を覗いたら、か細い声が聞こえた。
「駅までよう送って行かん。歩けん!」

時は朝の七時過ぎ。

そこでまず頭をよぎったのは、切符の払い戻しをせにゃいかん!
何しろ小一万のチケットを無駄にはできん。急いで駅に走って解約した。

救急車呼ぼうかね。
二分で救急車到着。

先生が、「いつ倒れましたか?;;;三時間以内であれば注射をすれば梗塞は溶けるのですが。でも危険ですから強制はしません――。」

「どうする?」

本人はちょっと迷って・・結局注射をすることになった。
その間、私は病院の待合室でうとうと・・

隣のオバハン、ドキドキしたような顔で震えとる。
お気の毒に。
初心者やな。
うちはもう熟練工や。


「注射が終わりましたのでお入りください」
看護士の声でわたしはたまげて目を覚まし特別室に入る。

歩いてみ!
病人は何事もなかったかのようにすっくと立ち上がった。
さっきのへろへろどうしたん。

元の状態に戻って家に帰れた。
注射してよかったな。

三時間やて。
●●は速い内に打ちなはれ。
命との勝負の時間やからな。

2012. 08. 19  
26章 美有と玲

孫の美有と玲は20代も半ばになった。
ミチは元気なとき、圭介にいつも言っていた。
「今でも目に浮かぶよ...あの子らが小さい時パタパタパタと足音を立てて、わたしの部屋に駆け込んで来てたのをね~」

ミチは小さい孫に向かってよく言ったものだ。
「お父さんを頼むよ」

       
孫達が大学へ入ってからは、ミチは年に数回しか顔を見ることができなかったが、夏と冬の休みには会いに帰ってくれた。それも束の間、あっという間にミチの元を去ってしまうけれど、そのわずかな思い出の中でミチは十分楽しむことができた。
ミチはふたりの孫に手紙を書いたり送り物をするのも楽しみの一つだった。

あるとき、ミチは圭介に言った。
「わたしは何が有り難いかって、この二人の可愛い孫を授かったことよ。優子さんと圭ちゃんには感謝しているよ」

*****


孫の幼い頃には、浴衣やウールで着物を縫うのを楽しみにしていたミチ。
学校に上がってからは、ちょっとおしゃれな洋服を見つけたら買ってしまうミチだった。
優子はミチ手作りの着物を着た美有と玲を、写真に撮ってアルバムに残している。


27章 家族の見守り

ミチの入院生活は6ヶ月間続いた。
圭介は時々帰ってきて母の傍に付き添った。
夜遅くに病院へ行ってみると、寒風が吹く夜に病室の窓が開けっぱなしになっていることがあった。完全看護とはいえ行き届かない面も多々あるので、圭介は家族の見守りが必要だとつくづく感じていた。

ミチは身体中の爛(ただ)れがあちこち増えていたのでこれまで、皮膚の治療としてステロイド2錠ずつが投与されていた。
ある日、圭介は担当の医師から、お話があります、と面会室に呼ばれた。
医師はミチの状態を説明した。
「皮膚の状態が悪いので検査をした結果、天疱瘡という皮膚病に罹っておられます。
この病気には大量のステロイドの投与が必要となります。この量のステロイドを続ければ抵抗力が非常に弱まるので、死期を早めることになります。でもステロイドの投与を中止すると、体中の皮膚の表面が剥げてしまうのです。ですから、病院としてはこのままの量のステロイドを投与するつもりなので、その覚悟をなさっていてください」

医師からの報告は以上のような内容であった。
圭介は≪来るべき運命≫として諦めざるを得なかった。


28章 いのち

時を同じくして、脳外科病棟に入院していた友人の父親がいた。
圭介と友人はお互いの病室を訪ねて、互いの親の病状を気遣い合っていた。暫く会う機会もなく過ぎていたが、友人の父親が肺炎になり肺が真っ白になっている状態まで悪化したので、ステロイドの治療を受けているというのを聞いた。
友人からそのことを聞いて数日後、その病室が急に慌しくなって不審に思っていた所、圭介は翌日看護婦から、亡くなったということを内密で知らされた。亡くなった患者は外部の者に気付かれないように、ひっそりと裏口から送り出される。その日の朝友人の父親の病室はすべての物が取り除かれ、空室になっていた。
時を置かずして、医師の言った通り、ミチの血圧が下がり始めた。
圭介は美有と玲に連絡を入れた。

家族四人で、ミチを見守る、長い時間が昼から夜に移った。
――長い長い夜だった。

静かに...一呼吸ごとに、息が遅くなっていく。
病室とナースセンターとの連携プレーが激しく行き交った。

ミチが家族に見守られて静かに息をひきとったのは、極寒2月の暁の刻だった。
ミチの身体看護婦によって清められ、手足を縛られて、人知れず病院の一階の裏口に運ばれた。担当の医師と看護婦達が並んで見送る中、ミチは圭介の運転する車で家路へと向かった。


最終章・回想

あれから何年経っただろう。

圭介は独り、山の上にあるミチの墓の前に佇んでいた。
母と暮らした日のことが、ついこの間のことのように思われた。

圭介を見つめる母の毀れるように優しいまなざし。
どんな時でも、何も言わずに受け入れてくれた母。

ミチは圭介の為にだけ生きた女性(ひと)だった。
いま母の一生を思うとき、圭介はそんな風に思えた。


――
≪圭ちゃん、頑張るんだよ。優子さんと仲良く暮らしてね――≫
そう呼びかける母の声が聞こえるような気がした。

山の坂を下りながら、圭介はつぶやいた。
≪おかあさん、ありがとう。僕は幸せだよ。おかあさんの子供に生まれて~≫

爽やかな風が圭介の頬をそっと撫でて通りすぎた。

―圭ちゃん、さようなら―
あれは、風の囁きだったのだろうか。



       


2012. 08. 19  
23章 晩年

ミチは圭介が留学を終えてドイツから帰るのを楽しみにして暮らしていた。
二年後啓介は帰国して、母校の大学で教鞭をとることになった。この先ずっと大学で研鑽を積み不動の地位を積み上げていくことになったのである。

圭介が結婚し孫が生まれた頃には、ミチは70代になり仕事を退いていた。
圭介の結婚相手は大学時代に知り合った音楽大学出身の女性で、ミチの若い頃の面影によく似ていたこともあって、好意を持ち付き合うようになっていた。名前は優子といい、音大ではピアノ科を専攻していた。後に優子は二人の女の子をもうけた。優子は明るい性格でミチにとても親しんでいた。

折にふれ圭介夫婦はミチと連絡を取り、事あるごとに実家へ足を運んだ。
ミチは孫の美有と玲を目に入れても痛くないほど可愛がった。ミチは幸せだった。


ミチの穏やかな老後の暮らしはずっと続いた。元の職場の看護婦達が訪ねてきて、色々身の回りの世話をしてくれることもあった。また職場のOB会と称してミチを連れ出し、現職当時の話に花を咲かせたりもした。

一方医専卒業後、ずっと付き合いが続いていた女医の友人達との交流も頻繁だった。地方の名産を送り合ったり、手紙のやり取りをしたり、時には遠方から訪ねてくる来る友人もいた。
多くの温かい交わりの中、ミチは時々体の不調を感じることがあった。調子が悪くなった時は、懇意にしている医師の病院に入院して治療を受けた。
「最近どうも不整脈が出てるようでね・・」
といえば、即
「うちへ来ますか。先生の為にいつもの部屋を空けて待ってますよ」
元病院の同僚の息子である医師は、いつもニコニコしてミチに入院を勧めた。時折体調不良で入退院を繰り返したものの、独り暮らしをすることに何ら不安はなかった。


24章 入院

圭介は日課のように毎日母に電話をしていた。その声がなんとなく寂しそうなのが気になり一度帰って元気付けようと思った。
高原へドライブでもしないかと誘う圭介に、ミチはそれまで患っていた腰痛が大分良くなっていたので同行することにした。爽やかな7月の高原は緑が一面に広がり心地よく、久しぶりに外出したミチは疲れた様子もなく圭介が運転する車の後部座席でとてもうれしそうな顔をしていた。圭介はやっぱり帰ってきてよかった、自分の顔を見てげんきになってくれたミチを見て圭介もまたうれしかった。

ミチにとっては楽しいドライブではあったが、腰痛がおさまったばかりだったので少々疲れもした。そして数日後、再び腰が痛み始めた。

「圭ちゃん、腰の痛いから先生の病院へ入院するわ」
「入院するんだったら、しばらく優子をこちらに滞在させるよ」

ミチは痛みはあるものの、いつも通りの軽い気持ちで、いつも準備している入院用具を入れた箱を持って入院した。箱の中には着替えの他に、財布と化粧道具の袋が入っていた。
馴染みの病院での入院生活は至極快適で、若先生の朝夕の見回りの時には冗談を言い合っていた。

しかしこれまでは数日の治療で回復し帰宅していたが、今回は次第に痛みが激しくなり毎日痛み止めを打たざるを得なくなっていた。入院して10日ぐらい経った頃ようやく回復の兆しが見え始め、いつになく陽気なミチはベッドの上に起き上り、自分で箸を持って夕食の病院食を食べていた。その状態を喜んで見ていた医師や看護婦も面白おかしく笑い合っていた。

――圭介がふとミチに目をやった、そのとき。
何となく、ミチの様子がおかしい!
それを察知した圭介が医師に言った。
「先生!母が痙攣を起こしてるように感じるんですけど」
たしかにミチはぴくぴくと顔がひきつっていた。
その急変を見た医師は血相を変えすばやく総合病院へ連絡し、病棟内は騒然となったのである。間もなく救急車が来て、ミチは近くの総合病院へ搬送された。病院に運ばれたミチには直ちに痙攣を止める注射が打たれた。ミチの痙攣は次第に治まりうとうとし始めた。
圭介はずっと傍に付き添ってミチの状態を見守り続けた。


25章 彷徨

平成の夏。
ミチは病院の脳外科で意識も定かでなくこんこんと眠り、時々目を覚ますような日々が始まったのである。
総合病院は完全看護なので家族の付き添いはできなかったが、圭介の上京後もあとに居残っていた優子は日に何度か病院に来てミチの身体を拭いた。冷房は入っていてもぐっしょり汗をかき、タオルで拭くとつるりと皮膚の皮が剥けた。

入院してから4ヶ月が過ぎ、正月が来た。
優子はベッドの脇に、花屋から買ってきた餅花を取り付けた。
(*餅花とは柳の枝に色とりどりの丸い玉をつけたお正月用のお飾りのこと。)

ミチは目が覚めると顔を上げ、餅花の玉をきょろきょろ目で追った。優子は少しでも知覚を高めようと、
「おかあさん、これ、何色かわかる?」と一つの玉を指すと、
「ホワイト!」ミチは大きな声で言った。

「これは?」と優子が聞けば、
「グリーン!」
ミチはなぜか、玉の色を英語で答えた。
意識がないかのように見えていたミチは、優子の指差す玉の色を全部言い当てることができたのである。

見回りに来た看護婦が餅花を見て言った。
「これ、いいですねぇ~。私も飾りたいな・・・」

入院して暫くすると担当の看護婦達はミチが医師であることを知っていた。
「しっかりした方だったんでしょうけど、今は可愛いおばあちゃんって感じですよね~」

ミチはおとなしくてとても可愛い患者だった。
総合病院へ移される前に入院していた病院の医師が時々ミチの見舞いにきた。
「なるべく早く口から食べさせたほうがいいですよ。流動食だけでは退院しても体力がなくて歩けなくなりますからねぇ~。僕が病院と交渉しておきますよ」

それまでは鼻からチューブを通して体内に栄養食を注入していたが、病院の計らいで早速少しずつ食事が出るようになった。病院食はすべてすり潰してあったが、一匙ずつ食べさせるにはかなりの時間がかかった。

圭介は帰っている間は病院を何度も覗いて、自らの手で流動食を一匙ずつゆっくりミチの口へ流し込んだ。圭介はミチのことを元気な時よりずっと可愛い人だと思えて何でも言えるような気がした。
幼い頃ミチが自分に言ってくれたように、「好きだよ、お母さんのこと」
圭介が言うとミチは「私も好きよ、圭ちゃんのこと」と応えた。


二時間毎に担当の看護婦達が回ってきて、床ずれが起きないように体の向きをを変えた。
はっきりと意識のない状態でベッドに繋がれて寝ている患者には、看護婦が昼夜を通して時間ごとに回って来る。

圭介は仕事の方では融通がきく地位にあったので、度々帰省し母に付き添う機会を持った。この先ふつうの食事ができるようになれば、体力がついて退院できるような気がした。
なんとかこの寒い冬さえ乗り切ることが出来たら!
春がきて桜が咲いたら、おかあさんに桜をみせてあげたい。桜が好きだった母を車椅子に乗せて、満開の桜並木をゆっくり歩く・・・そんな情景を思い描いていた。
圭介は母の回復を心待ちにしていたのである。


最終章「9」へ続く・・