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2012. 07. 28  
その1

凛子が夢うつつの中からはっきり目を覚ましたのは、もう夜の帳が降り始めた頃だった。
凛子は元の家の中にただ独り居た。

雨が上がりの庭に出てみると、そこには夜空を見上げているアッツがいた。
空には月も星も見えなかった。

「何を見ているの?」

凛子は初めて優しくアッツに声を掛けることができた。これまで凛子自身、そのような気持ちにはなれなかった。いつも怯えて、服従して、義務ともいえる家事をこなしているにすぎなかったのだ。

アッツは凛子の方に顔を向けた。

これまでは吼える声だけが響き渡っていたのに、何も聞こえてはこなかった。

「何か言ってごらん!吼えたっていいのよ}
凛子は覚悟をして、アッツの耳をひっぱった。だがアッツの反応はなく、掴んだ耳が次第に遠ざかっていくのを感じた。 凛子は目の前にいたアッツが消えているのに気がついた。


その2

凛子は暗闇の中で何時間も独りでじっとうずくまっていた。あたりが少しずつ明るくなっていくのを感じた。

アッツは何処へいったのだろう?

たしかに、ここに、居た、と思った。庭のあちこちを、畑の辺りも探してみたが獣らしいものは見つからなかった。
「どこか遠くへ逃げて行ったのかしら。きっと、わたしに支配されるのが辛かったのだわ。可哀想なアッツ」

そう思うと、凛子は心が痛んだ。
「もっと優しくしてあげればよかった!」

凛子は哀しい気持ちで玄関に入って部屋の戸を開けた。

その時!

凛子はテーブルの前に正座している人間を見たのだ。それはまさしく以前自分が使えていたご主人様だった。

 「いつ!いつ!お帰りになったのですか!」

 凛子はうれしさのあまり、というより驚きのあまり気を失いそうになった。ご主人様の身体を揺すって喜びを表したかった。でも仕える身でそのようなはしたないことはできず、ただ大きな声で呼び掛けるしかなかった。

しかしアッツはその声が聞こえぬかのように振り向きもしなかった。前に置かれている食べ物を食べた気配もなかった。落ち着いた様子で立ち上がり凛子の方を向くとにっこり笑った。

 凛子はご主人様が何か話し掛けてくれるのを待っていた。しかし、彼は一言も話すことはなかった。凛子には彼が手を使って意志表示をしているかのように思えた。

もしかして?

凛子は何やら胸騒ぎがした。

「わたしの声が聞こえないの?」
凛子は観察するようにご主人様の様子を伺っていた。

凛子の予感は当たっていた。
人間に戻ったアッツは耳が聞こえなくなっていたのだ。
耳を失うことによって人間に戻ることができたのだ。もう凛子に吼えることはないだろう。凛子はそういう意味ではほっとした。凛子の目の前には穏やかに笑みを浮かべるアッツだけが居た。


凛子は自分の言いたいことを口と身振り手振りで表現した。

ご・は・ん・に・し・ま・しょ・う・か?

こ・れ・か・ら・ど・こ・か・へ・で・か・け・ま・す・か?

わ・た・し・か・い・も・の・に・行っ・て・き・ま・す~


アッツは凛子が大きく口を開けて発している言葉が理解できるようだった。
アッツは理解したという合図として、凛子の言葉ににっこり頷いた。
そのさまはとてもいじらしかった。何と素直で可愛いのだろう!と凛子は初めて思った。
わたしにできる精一杯のことをしてあげようと思った。


 凛子は家事を終へた後、ご主人様を喜ばせることばかり考えていた。
それは彼を車の助手席に乗せて外の世界を見せることであった。時には海に向かって車を走らせ、或るときは山に、高原にと出かけた。

立ち枯れの木々の続く沿道には冬桜が小さな真っ白い花をつけて待っていてくれた。二月半ばになると、真黄色の菜の花が盆地の田を染めた四月末には山頂を彩る曙ツツジを見たさに、険しい山道を杖をついて上がった。

初夏になると、標高1400mの高原へのハイウェイを走った。
高原はようやく出揃った緑の絨毯の上で放牧された乳牛や茶色の雄牛達がのんびり遊んでいた。
秋の高原では、ハイウェーを挟む山々の錦の紅葉に目を見張った。凛子は*もみじ*の唱歌を歌いながら眺めた。

或る年の晩秋には、南の岬に出かけた。真っ白い小さな野路菊が岬の岩壁を覆い尽くしていた。高い岬の眼下に、目の覚めるようなコバルトブルーの海が拡がっていた。

凛子は幸せそうなご主人様の横顔をそっと見上げた。


その3

凛子は夜になると、庭に出て独り空を見ることが多くなった。

晴れた日の夜空には月が微笑んでいた。寄り添うように金星が瞬いていた。

凛子はこれまで辿ってきた心の奇跡を思い浮かべた。

白い光に導かれて歩いた砂浜。
優しく抱きしめてくれたナイトの、あの温かな感触。
毎晩訪れて自分を諭してくれた翁。


あのことは夢だったのだろうか。
凛子にはそれは夢ではなく、確かなことだった、と思えた。

今でもきっと見守ってくれているであろう、あの人達。
自分は彼らと繋がっているのだ。凛子はそう確信した。


その4

アッツが人間に復活して生活するようになって十五年が過ぎた。
毎日宇宙と神とのふれあいの中で暮らした十数年だった。誰もかまってくれなくても十分に幸せだった。

だが、これまでと一つ違ったことが唯一つあった。それは、そのことを彼自身が意識して暮らしたこと。

自分を心血注いで育ててくれた母親、傍で世話をし続けてくれた凛子、今では触れ合いのなくなった人達等、みんなに感謝の気持ちを持っているということだった。

自分は皆から見守られている。
そしてそのことで自分は生かされている。
その思いが彼を至福へ導き、永遠の時空へと飛び立たせたのであった。





      


執筆者からの追記

実在の人物をモデルに、病気から立ち直っていく精神状態と、介護をする側の心の遍歴をファンタスティックな描写で表現してみました。




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2012. 07. 28  
その1

凛子が虎になった男との暮らしに決別しようとしたのは、夏が過ぎて秋の風を感じるころであった。凛子の心には、アッツの世話をしなければいけないという使命と、他へ救いを求める気持ちが交互に行きつ戻りつし始めていた。

そのような時である。

凛子の処へ夜毎に翁が現れるようになった。うちひしがれている凛子に、翁は柔らかな光を注いでくれた。凛子は目には見えない白い光に包まれていた。

翁は凛子に優しく話しかけた。

「現実に味わう苦しみを忘れることによって、新たなる光が差すようになる」と。
「奈落に陥るような暗くて嫌な思いを、意志の力で打ち消し、光へ目を向けよ」と。
「ただひたすらに光の方だけを見ていれば、心の隙間に何者も進入してくることはできない」と。

  彼が語る話は少しずつ凛子の心の扉を開けていった。 



  来る日も来る日も翁は凛子に語りかけた。
夜毎繰り返される光へのいざないは凛子の気持ちを次第に変えていった。長い間流してきた涙が少しずつ乾き始めた。涙は愛へと移行し始めたのだ。

身近な愛する者への愛。
触れ合う他者への愛。
大いなる慈愛。

苦しみを昇華することで得た愛という宝物。

何者にも犯されない、凛として確固たる自己確立。
ゆるぎない愛の世界に身を入れようとしている凛子だった。


その2

アッツが虎に変身して八年の年月が経っていた。

この頃になると、アッツは夜に庭に出て空を見上げるようになっていた。誰も自分が人間であったということを認めてくれてはいないけれどあの星だけは見てくれている。
あの月だけは自分の価値を知っていてくれる。

アッツは安堵しうれしかった。
今夜も安心して眠れるかもしれない・・。


アッツが星や月を見るようになってから、夜の遠吠えは次第に減っていった。
凛子が自分の世話をしてくれることは感じていたが、人間と動物の境界を埋めることのできないもどかしさを、アッツは宇宙に求めていたのだ。
アッツにとって宇宙は傍にいる凛子よりもずっと身近なものだった。アッツは幸せだった。アッツは安らかな気持ちで時を過ごした。


時折自分を育ててくれた母親のことを思い出していた。

 子供の時にはあんなにも求めていた母親だったのに、どうしても素直に気持ちを出すことが出来なかったことへの悔い。そのことを思う度にアッツは心で泣いた。 
人間であった頃、思春期からずっと母親に対して慈しみの気持ちを持ったことがなかったアッツ。

=おかあさん、今あの星になって僕を見てくれているんだね・・ ごめんな。優しくできなかったな・・
その気持ちを伝えることがなかった人間であった頃。

=もう逝ってしまったんだもんな。会えないんだよな・・
アッツの心の中に母に対する仕打ちへの悔恨が生まれ、初めて母への慕情が蘇ってきていた。


その3

凛子の気持ちは安らいでいた。
白い光にいざなわれるように凛子の心は海を渡った。

松林を通り抜けると、はるか彼方まで遠浅の浜が続いていた。あたりはもう真っ暗になっていた。
彼女は寄せ返す波の音を聴きながら砂に足跡を残して浜辺を辿った。優しい光が彼女の身体を暖めてくれた。 彼女はしばし葦の茂みに身を横たえた。


「目をあけてごらん」

どこかで囁く声がした。
凛子が静かに目を開けると、そこにはナイトが立っていた。彼は凛子を見下ろして優しく微笑んでいた。

「あなたですか。毎夜わたしの所に来て下さっていたのは?」

ナイトは言った。
「そうだよ~いつも君の幸せを祈っていたんだ。ここで会えてよかった!」
ナイトは優しく凛子を抱きしめた。

凛子は自分が不思議な感覚の中に消えていくのを感じた。今まで味わったことのない溢れるような優しさの中で、凛子は生まれて初めて幸せを感じたのだった。実際には凛子が経験したことのない*パパの感触だった。



 朝の光がさして、凛子が目を覚ました時にはもうナイトの姿は消えていた。
凛子の頬に幾すじもの涙が流れ落ちた。
「ありがとう。生きてゆく勇気をもらいました」
凛子は幾度も幾度も心の内でつぶやいた。


その4

アッツの母親は戦争未亡人だった。
アッツが二歳の時、父親は二人の子供を残して戦死した。彼は小さな島に生まれ、成人してからは猟師をしていた。

島では珍しいほどの美しい女性を嫁にとり、二人の男の子の父親となった。しかし親子四人の幸せな暮らしは長くは続かず、幼子を残して彼は戦地へ召集された。

幼子二人を抱えて路頭に迷った母親は、実家の兄の世話になることになった。日が沈むころになると、彼女はアッツを背中に負ぶって山への道を歩いた。ねんねこに負ぶわれたアッツと、頬っぺをくっつけて泣きながら歩いた。


アッツはその母の昔話を聞いていたにもかかわらず、ずっと母に優しくできなかったのだが、実はアッツの胸の奥深くにはその母の姿はひっそりと住み着いていたのだ。
奇しくも虎になってやっとその思いに気付くことができたアッツだった。


*第三編につづく...


2012. 07. 28  
その1

元は人間だった。
それも、とても温厚でソフトな今ならさしずめイケメンといわれるほどの風貌。
ある日突然ガォ~~っとものすごい轟声を発して虎に変身してしまった。

本来人間というのは前頭葉が働き気遣いが出来る動物を言う。虎になってしまったその男は、以来人間としては考えられないような思考と行動で生命を維持することになる。

虎になった男の元の名前はプライバシー保護の為伏せることにしてさしずめ、その名前を=アッツ=としておこう。
アッツの欲望は獣だから激しい。何といってもすごいのは・・食欲。食べ物を見つけるとあっという間に平らげてしまう。ほんの数ヶ月で、アッツのお腹は狸のようにぽんぽこりんに膨れてしまった。

変身した当初は昼夜にわたって横になり眠っていたが、時々目を覚ましている時間帯もあった。眠りから覚めた直後の病的な朦朧とした状態は*せん妄と言われるが、そのせん妄状態のアッツは虎に変身した直後と同じように吼えた。

その声は向こう三軒両隣に鳴り響きそうな、人間でいうとうめくような声を発した。
その声はまさしく虎の声。顔は火照り、まるで獲物を狙っているかのように下目使いに見据える鋭い目つき。だがその姿を見た者はいない。



その2

 
ところがたった一人、それを目の当たりにしている存在があった。
それはアッツが人間だった頃に世話をしていた者で、身も心も今にも壊れそうなガラス細工のような女性だった。彼女はご主人様が虎に変身したからといって傍を離れるなどということは微塵も考えず、アッツの声が聞こえるエリアに待機して暮らした。
三度三度の食事の時間になるとアッツの好物を用意して食べさせた。アッツが望む無理難題にも従順に従った。


虎になった男は人間ではなく猛獣であるがゆえに、人間の優しさを感じることができるはずがない。
彼女は毎日毎日怯えながら独りぽっちで過ごした。

アッツは退屈すると彼女に噛み付こうとする時があったが、怖くて震えながらも彼女はかいがいしくアッツの世話をし続けた。

そのような状況で、どうして彼女が無事でいられたのだろうか。
それには理由があった。それは彼女が熱心に神に祈りを捧げていたから。

=自分がこの世で命を全うするまではこの現状に耐えていくことこそ贖罪なのです=と毎日彼女は神に祈っていた。
=どうぞご主人様が元の人間に戻れますように!そして幸せな最後を迎えられますように=

彼女の祈りは続いた。
しかしその願いも空しく歳月はどんどん流れていった。五年待っても十年待っても虎は虎のままだった。 彼女は年を重ねていくにつれ、次第に心の疲れを感じるようになってきた。生きていくことさえも恐れるようになった。

そしてとうとうこんな情けないことを考えるようになっていた。
=神様はいらっしゃらないのだろうか? 自分はこの先何に救いを求めたらいいのだろう・・=

彼女の心はいつも彷徨っていた。呪縛を解きほぐすすべもない身で彼女はあがいた。
アッツが虎のままでいることをあるがままに受け入れよう!彼女がそのように思えるまでには相当の年月がかかっていた。

荒野を彷徨い続けて、今までの自分の存在を打ち消し価値のない者としか思えなくなっていたとき、何かがふっと吹っ切れた。
その瞬間閉ざされた彼女の心はこれまでに感じたことのない安堵感の中にいる自分を感じた。まるで蓮の葉の上に乗ったような気分だった。

それからというもの、彼女の心には今までのように強いられてではなく、自分の意思でアッツへの労わりの気持ちを持つことが出来るようになってきた。


その3


遅ればせながら紹介しよう。

その女性の名前は凛子。
心身共に弱いけれどどこか凛としているその姿はその名の通り、神の目には気高く写っていたに違いない。
凛子には身寄りがいなかった。自分の収入といってもたかが知れていた。

家計はアッツが人間だった時に蓄えていた預金でまかなわれていた。
アッツの家は広い畑に取り囲まれていたので、凛子はそこで野菜作りをしていた。

アッツに与える大量の魚肉類は町の市場で買ってきて食べさせたが、凛子自身は畑でとれる野菜を主な食料とした。庭に放し飼いされている数羽の鶏が卵を産んでくれた。
また山羊が子供を産んだ後は、毎朝山羊の乳を絞って飲むこともできた。

凛子は家事に畑作に、休みなく働いた。
アッツは凛子が働いている時だけは吼えなかったし、凛子を襲うこともなかったのだ。
凛子のほっとする時間は、働いている時だけだったといえる。


暑い夏には汗を流しながら働き、寒い冬には暖房のない部屋で冷たい水で家事をした。
アッツはそれをじっと見据えながら、満足そうにごろりと横になって凛子を見ていた。

仕事を終えると凛子は身も心も凍えながら、自分の部屋で息を潜めて時をやり過ごした。
ボイラーの設備も整っていたし電気器具もあるにはあったが、アッツの目の届く所では使えなかった。

アッツは人間の豊かな暮らしというものを受け入れようとしなかったのだ。人間らしい生活を禁じられている凛子は、アッツの細部に至るまでの監視には逆らえなかった。それでも凛子は生きていくことを余儀なくされていたのだ。


その4


凛子はたまにアッツを外に連れ出す必要に迫られることがあった。
大きな図体のアッツを乗せて車を走らせる時、アッツは機嫌が悪くなると車の中で大暴れした。足をばたばたさせ、割れるような大声で吼え続けた。対向車線の車を気にしながら凛子は必死で車を走らせた。

車の中は密室で助けを求めることはできない。
シートベルトをつけて身動きできない状態の凛子は暴れるアッツを意識しながら運転を続けやっとの思いで家路に着いた。

そういう事態が繰り返されて二年ほど経ったとき、凛子が独りで街に買い物に出たことがあった。
「こんにちは~」

凛子が知り合いに声を掛けると、声を掛けられたその人は不審そうに凛子の顔を見て通りすぎて行った。
アッツが食べる肉を買いに行った時も、肉屋の主人は言った。
「凛子さん~。あんた人相が変わってしまったなあ!」

家に帰って、凛子は鏡で自分の顔を見た。毎日見てる顔なので今までわからなかったが、凛子のやつれた様は他人が見まちがえるほどひどかったのだ。

凛子は心密かにアッツを残して家を出たいと思うこともあった。でも自分がこの家を出たら、アッツはどうなるんだろう。一人では命さえ危ぶまれる猛獣の暮らし。人間社会では取り合ってくれる者もいないだろう。その思いがいつも凛子を苦しめた。事あるごとにその葛藤が凛子の胸の内を去来した。

宿命・・・そう。宿命とはそういうものなのだ。

宿命を逃れ、逃れた先に待っているものが一体何だというのだろう。ただ神に見捨てられた己が姿が、凛子には目に見えるように思えた。  自分の意思ではどうしようもなく、身動きできない環境に甘んじなければならない。
その葛藤をいかに心に納めて命を繋いで行くか・・・ それが凛子に与えられた課題だった。


その5 

アッツは夢を見た。
人間だった頃、会社の旅行で北海道やインドネシアに行ったこと。サラリーマンではあったがハードな部署だっただけに命を掛けて勤めを果たしたこと。アッツの夢は人生の途中で途切れてしまったのだ。

アッツの心は満たされることはなく、人間であった頃に出会った女性のことを思い出すこともなかった。虎になる以前にも愛情を感じたことはなかったが、虎に変身してからはその女性や周りの人間に対して憎しみさえも持つようになった。

それを発散できるのは傍で世話をしている凛子以外にはない。凛子に向かって吼える声は恨みが充満しているかのようにみえた。凛子が幸せか不幸かなどと、虎になった男の脳裏にあるはずがなかった。

アッツは自分が虎として生きていくだけで精一杯だった。アッツにとって、生きていくということは食べて生命を維持することだったのである。
朝目覚めると、食べるものをあれこれ選択して食べる。正午が近づいて来ると、また食べ物をむさぼる。食事の間にも、蓄えられている食べ物を片っ端から食べ尽くした。 食べては寝る毎日が過ぎていった。


動物に変身したアッツは人間世界から見れば生きていても価値のない存在だった。とはいうものの、虎であるが故に意識こそしなかったが、アッツは宇宙と神に守られていた。
アッツは動物に変身して人間社会とは遮断されていたけれど、その加護の中に安住することで命が繋がれていたのだ。
アッツは宇宙の中に存在し、仏の世界で生かされていた。知らないところで彼は守られていたのだ。 彼がそれをいつ意識するか、それを意識するようになった時アッツは人間として復活できるかもしれなかったのだ。

*第二編へ続く..



2012. 07. 27  
その1

わたしは結婚式の披露宴の時、お仲人さんから《道端に楚々と咲いていてふと手を伸ばして手折りたくなるような桔梗のような人》と紹介された。
仲人さんとしては美人ではないがまあカワイ系止まりなので何とか持ち上げてやろうと数日頭をひねった挙句の表現だったのだろう。

わたしの連れ合いとなる人は草食系の美男子。色が白くて茶色味を帯びた大きな眼は外国人の血が混じっているようにも見えた。物腰はソフトで誰一人《ガイナ人》というイメージを持つ者はいなかったであろう。数十年後傍にいる妻以外は。


その2

わたしは本当は肉食系男子が好きだった。
浅黒く仕草も言葉遣いも男っぽくて、「・・したまえ」とかの物言い。
シャツの袖をめくって二の腕に少々毛が生えていて男の匂いがして、低音のソフトな声で、寡黙の間に間にぽつんと喉のあたりで発する聞こえるか聞こえない位の笑い声をもらす・・そんな人。


わたしは思春期を過ぎて大人になりかけたころ、そんな人に巡り合った。
純情派のわたしは頭がぼーっとなりあまり口もきけず、意思表示ができぬままその淡い恋は終わりを告げた。
その人が積極的にわたしを自分のものにしてくれなかったのは、やっぱりわたしは道端の花に過ぎなかったのだ。



わたしは自分に無いものに憧れていた。
引き締まったプロポーション、セクシーで大人っぽい女性、仲間として気軽に声を掛けてもらえるような女性。
そんなだったらどんなに楽しい青春時代が送れるだろうと。

でもわたしにイメージ付けられたのは、ぽつんと寂しそうに一人佇んでいる小さな少女、こつこつマジメな勉強家、声が掛けにくい遠い人。
だからわたしは思春期さなかの中学、高校で一人のボーイフレンドもできなかった。


その3

大学三年生の夏休みに、わたしは地元の母校の中学校で英語の教育実習をした。
折りしも時を同じくして実習を申請していた他大学からの男子学生がいた。

ずんぐりしたまさに肉食系男子。
ぼたんを一つはずしたワイシャツから胸毛が見えた。若いけど男の匂いがした。
私達は二人で組になって二週間行動することになった。

肉食系男子その彼は見た目は怖そうだけどのんびりしていて素直な人だった。
授業参観で教師らが見守る中、平気で英単語の発音を間違えたりしていた。




七月の23日に始まる町の夏祭り。
わたしは毎年母と出かけていたが、その年の祭りにはその肉食系男子と行く約束をした。

実習もほぼ終わりになりほっとしていた当日、わたし達はバスに乗ってお祭りの主催の神社まで出かけた。
わたしはノースリーブで後ろでリボン結びをする花柄のワンピースを着て、肩ほどの髪をカールし、カワイ系のいでたち。

何ということもないふたりの関係なのに、わたしはうきうきしていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、真っ暗になったころ帰ろうかとバスに乗った。
彼は途中下車してわたしの家の近くまで送ってくれた。

彼は女の友達との付き合いも派手なような感じがしていたので、もしかするとキスされるかもしれないなどと思ったりしていたが、彼は朗々とした声であっけらかんとしゃべり、じゃあ叉明日!、と言って後ろ姿を見せて帰って行った。
暗い山側の道を歩いて自宅へ帰るらしかった。
わたしはちょっぴりがっかりし、やっぱり自分は道端の花なんだなと思った。


その4

祭りの翌日も実習があり、わたしはバスで中学校へ行った。
当然会えると思っていた肉食系男子は体調が悪いとの連絡があり、次の日も次の日も来なかった。
そしてそのまま実習は終了となった。

わたしは近くに住んでいるという小使いの女の子に、見舞いと大学での下宿先の住所を書いた手紙をことづけた。
最後に会えなくて別れの言葉も交わせずとても残念に思った。


夏休みが終って大学の授業が始まり、わたしは叉一人の生活が始まった。
一人で学生食堂で食事をし、夜遅くまで勉強する日々だった。

そんな折、郵便箱の中に一通の封書が入っていた。
一緒に実習した肉食系男子からの手紙だった。
その手紙は何枚も丁寧に書かれていた。


こんなに清らかな女性に僕は会った事がありません。まるで聖母のようだと書かれていた。
そんな風に見られていたのかとわたしは思った。
聖母だったらキスはできないだろうと納得し、ちょっと残念に思った。


その5

実習に通っていたとき、朝のバスの中で再会した人とわたしは卒業後結婚した。
夫となるひとはわたしと同じ時刻のバスに乗って通勤しているらしかった。
まさしく草食系男子だった。

あの肉食系男子はどんな女性を嫁にしたのだろう。
いつか会いたかったけど。



            了



2012. 07. 26  
一章出会い

わたしの名前はより子。
小学校の教師として山の麓の小さな学校へ赴任してきたのは19歳の時だった。
師範学校の分校の授業の合間に教育実習をさせてもらえた時代の制度に乗っかっていたのだ。

自宅から通勤するのに煙の出る汽車で一駅の所にその小学校はあった。
師範学校へ行くには二駅乗るのだが実習先の小学校はその途中にある。

午前中に師範学校で授業を受け、午後にこの小学校に通ってきて教師として半日を過ごした。

自宅のある町は小さな城下町で、白壁に囲われた家の庭には大きな池があってその傍に白い蔵も建っていた。
わたしがその後この家を出て駆け落ちすることになろうなど誰が想像したろう。



わたしは赴任して間もなく三年生の担任を命ぜられ、特別に全校の音楽の担当も任されていた。
郡部の音楽会がある時には授業がおわってから遅くまで歌の指導を一人でこなした。
購入されたばかりの古いピアノの狂ったようなキーを叩きながら何度も何度も≪里の秋≫を歌わせた。
子供達はわたしの言うままに歌ってくれた。

歌の指導をしているとき、私の担任ではなかったが気になる女の子がいた。
母親が遠くに働きに行っていて今はいないのだと担任から聞いていたが、その子は何となく寂しさが漂っていた。

毎朝朝礼で運動場に集まるとき、その子は三年生の列に並んでいたが、私のクラスの横の列の真ん中ほどの所からいつもじっとわたしを見ていた。
わたしがちらっと目を遣るとその子はハッとしたように睨み返した。

合唱の練習が始まったとき、わたしは初めてその子と話をすることができた。
「歌うの好き?」
「はい」その子はあまり物を言わなかった。


ほかの子供達のことは全く気にならなかったのに何故なんだろう。
わたしは自分でもふしぎな気がした。

その内その子はわたしに甘えた仕草をしてくるようになった。
色々おしゃべりしたり私の腕にしがみついたりした。

「ね、先生をお家に連れてってよ」
わたしは思い切って女の子にお願いをしてみた。
女の子は「はい。いつでも」とはにかんだように言った。

わたしは放課後その子の跡について家まで案内してもらった。

「遠いところをありがとうございます」
70歳くらいにみえる祖母という人が障子戸を開けて出迎えてくれた。
障子戸の前の廊下は夜に雨戸を閉めるだけで昼間は縁側として庭に入ってくれば誰でもすぐそこに座ることができた。

「いつもこの子がお世話になっておりまして・・・」と祖母という人は丁寧にお辞儀をして、更にあれの母親は関西で勤めていまして医者をしています。だからこの子のことはわたしは不憫に思うております、と説明した。

わたしはようやくその子には父親が居なくて、今は母親も不在、老いた祖母と二人でひっそり暮らしていることを知った。
このときわたしは時々この家を訪ねてこの子を慰めてやろうと決めたのだ。




女の子とコンタクトをとるようになってからわたしは小学校へ行くのが楽しみになっていた。
その子も私と話をするのがうれしそうだった。

わたしは女の子の母親が実家に帰ったとき会ってみることにした。
母親は小柄できりっとした細面。祖母から聞いていた通り女医らしい雰囲気が感じられた。
わたしが初めて会ったときは冬だったので、渋いグリーンと黄のチェックのジャージーで仕立てたワンピースを着ていた。40歳ぐらいに見えた。

母親と話している内、わたしは子供のとき町の総合病院で診てもらっていたということがわかった。
「あの頃はとっても体が弱いお子さんでしたのに、こんなに大きく美しく成長されて・・」と母親は優しい眼差しでわたしを見た。

わたしは女の子の母親のことが一遍で好きになっていた。



その後わたしは女の子の母親の了解を得ていたので、女の子を自宅に連れ帰って面倒を見ることが多くなった。
学校からそのままランドセルを持って私と一緒に汽車に乗ってうちに来た。

十畳の間にお膳を運びふたりでご飯を食べ、一緒にお風呂に入って女の子の体を洗ってやった。
手の指の間を洗うとき握り拳を作らせて洗った。
夜は床を並べて寝た。
朝起きて準備をして私と女の子が学校へ出かけていくのを私の家族は温かく見送ってくれた。

三年生の終業式が終るころ、その女の子は小学校を変わることになったと私に伝えた。



わたしは学校に行ってもその子がいないと思うと寂しかった。
あの子の代わりに誰か好きになれる子を見つけようという気になっていた。

その頃である。
わたしの目の前に一人の男があらわれたのは。



二章別れ

その新任教師は小柄な私なら見上げなければいけないほど大きくて、片頬にあるケロイドが一層凄みを際立たせていた。
彼は次の新任ということでわたしの隣に席が決まった。
「よろしく」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」

小娘のわたしに彼は先輩に対するように礼儀正しく挨拶をした。
教師としてはもう十分な履歴があることは察しられた。
年のことはよく分からなかったが少なくとも若者でないことは確かだった。

「きみ、いくつ?」
「はたちです...」
「若いね、好い頃だよ」
彼は煙草をくゆらせながら、わたしと話す時にはいつも目を合わせなかった。
わたしはその男のつんと尖った鷲鼻ばかりを見ていた。


わたしの家には厳しい父親と肝っ玉の据わった母親、それに兄夫婦、まだ嫁入りしていない姉達がいた。
夜の門限は決まっているようなもので、いつもの汽車で帰らない日には、何処で何をしていたかと家族みんなが追求してきた。

「よりちゃん、このごろいつも一汽車遅れて帰るね、どうして?」
いち早くそのことを聞いてきたのは一番上の姉だった。
わたしは姉の言葉より何も言わぬ父と母、そして兄の顔色を気にしていた。


わたしは昼休みになると彼と学校の裏の山で会うようになった。
彼が先に何気ないふりをして職員室から姿を消し、わたしはそのあと他の教師達の居なくなった頃を見計らって校舎の裏を通り抜け山に駆け上がった。

わたしたちはほんのわづかの逢瀬を、抱き合い長いキスを夢中で交わした。
その愛撫の時間は自分が教師としてこの学校にきていることも、いつ誰かが山に上って来るかもしれないことも忘れていた。

わたしに触れた男は彼が初めてだった。
大きな力で抱きしめられる夢見心地の感覚が、もう彼なしでは生きていられないという気にさせた。

「今晩はあとの汽車で帰ればいいだろう...」
そういう彼の無理な誘いを断る気もなくわたしは誘われるままに受けた。

何日か遅く帰る日が続いた晩、何かが起きるという予感通りやはり何かが起きた。

ーどこで何をしていた!
ーそうよ、あんたこのごろおかしいわよ・・
ー何か悪いことしてるんじゃないでしょうね!

兄から、姉から、それまで沈黙を守っていた母までが口々に責め始めた。
父親は奥の部屋に篭っていたが、わたしの行動を一番よく知っていたのではなかろうか。

わたしはこの世で何も要らなかった。
彼さえいれば!彼さえわたしを抱きしめてくれたら他のもの皆捨ててもいいと思っていた。
父さんなんか母さんなんか、兄さんなんか姉さんなんか、捨ててやる!


わたしはその晩ボストンバッグ一つ抱えて駅にいた。
泥棒猫のように辺りに知り合いが居ないか窺いながら電話口で声を押し殺して話した。


「町の宿に泊まりなさい。明日の朝そこに行くから」
彼は宿屋のある道を教えて早々に電話を切った。
わたしは彼のそのひと言だけが頼りだった。


翌日わたしは彼と東京行きの列車に乗り込んだ。
わたしはマフラーですっぽり頭を覆いサングラスを掛けた。
彼が持ってきてくれた男物のサングラスが鼻からずり落ちそうだったが度々手ですくい上げながら汽車に揺られていた。

「東京へ行けば何とかなるさ」
「はい」
わたしは不安で胸が一杯だったけれど、彼が傍にいるだけで何も心配することはないのだと自分に言い聞かせていた。



三章新生活

彼は朝の駅の売店でいつもの煙草を買った。
隣に座っているわたしに彼の吸う葉巻の煙は容赦なく流れて、泣いているのか煙が目に沁みるのか分からない涙がとめどなく流れた。

夜明け前に家を出たので一気に疲れが出たのか、わたしは彼の膝にもたれて暫く眠った。

「着いたよ」彼の声で在来線の終点に着いたことを知り、急いで下りる準備をした。
わたしはこの駅から本州の列車で東京へ行くのだと思うと緊張感でがたがた足が震えるのを感じた。


一夜明けて東京駅に着くと、彼は駅の案内所で宿を予約した。
東京には来たことのないわたしだった。


--*--

少なくともわたしが心の安定を得て彼との新しい生活が軌道に乗ったのはそれから1カ月経ってのことだった。

「子供たち今ごろどうしてるかな...」
ふと漏らした彼の言葉に、わたしは自分には感じなかった残してきた彼の家族への思いが大きく悔いを残しているのだろうと思った。

「可愛い盛りだもんね」わたしは慰めるように彼の背中に腕を回した。
「仕方ないよ。これで家族を捨てたの二度目だから...何てことないさ」

彼は吸いかけの葉巻を乱暴に灰皿で揉み消し、座敷にごろりと横になって天井を見ていた。
彼の苦悩と若い自分の浮かれている気分の温度差がどれくらいのものなのか、この時わたしは知る由もなかったのだ。


わたしはこの間取得した教員免許証を頼りにいくつかの小学校に履歴書を送って、通知がくるまでの数日をのんびり過ごした。
金の工面をする必要もなく彼が手渡してくれる生活費の中から毎日の食事を作った。

「これでとりあえず入用の物を買い給え」そう言って彼は札束を机の上にポンと置いた。
そういえばあの晩取るものもとりあえず家を出たきりのボストンバッグには二三日の旅行の着替えほどしか入っていなかった。

彼は二人分の食器が入るほどの小さな水屋とこじんまりした鏡台を買ってくれた。
わたしは鏡台に向かって自分の顔をまじまじと眺めた。
化粧品を揃えなくちゃと思った。
化粧などしなくても素肌は若い潤いが漲っていて、口紅を引いていない唇も彼の求愛をいつでも待ち受けているかのように赤く染まっていた。

彼は何かを思い出す度にわたしを抱いた。
わたしは彼に抱かれると何もかも忘れることができた。



その後間もなくして、私立の小学校から採用通知がきた。
面接に行ったとき何となく手ごたえを感じていた幼稚舎から大学まであるクリスチャンスクールだった。
わたしは毎日参加する礼拝に祈りを捧げるたび複雑な気持ちがしていた。


彼も勤め先が決まった。
私達は暗黙の内にうしろを振り返らないようにとの思いで暮らしていた。
一年後わたしは懐妊し10ヵ月後には男の子が生まれた。


その時ようやく実家の母から赦しの手紙を受け取り、母が上京してきた。
勤めながら子供は育てられないだろうと、母は一年間私達の家に滞在した。

一年後、母は自分のあとに女中を寄こすからと言い残して帰って行った。
東京に嫁いでいた上の姉からも便りがあった。
わたしは自分には沢山の身内がいることをこの時改めて意識したのだった。



四章和解

わたしは就職した小学校がとても気に入っていた。
教員の多くは敬虔なクリスチャンですこぶる居心地が良く、この先ずっとこの仕事が続けられそうな気がした。

職に就いた二年目には担任を持たせてもらえるようになり、帰宅の時間はこれまでより一時間くらい遅れるようになった。
息子は女中と二人で一日中過ごしていたが、三歳になると幼稚園に通うことになり、わたしが帰るのを待ち構えたように園での出来事を話した。

息子にはわたしのことをママと呼ばせることにし、彼のことはパパと呼んだ。
わたしにとっては初めての子供だが、彼には最初の妻の二人の子、二番目の妻の二人の子がいたので五人目の子供だったわけだ。


わたしが家庭というものに描いていた夢とは大いなるずれがあり、そのことは少しわたしをがっかりさせた。
彼は子供には淡々とした父親だったが、男としての精力は旺盛で、疲れて帰るわたしの身体をむさぼるように求めてきた。


疲れている時わたしはごめんね、と言って背を向けると、彼は不満そうな声を顕わにして、なーんだ!と呟く。
あの頃はあれほど彼に抱かれることを熱望しここまで付いてきたのに何故こんなにも冷めたのかと自分でもふしぎな気がした。

息子がやがて三歳になり四歳にもなると、パパは僕が好きじゃないんだと子供ながらに感じていたようで、甘えて傍に寄っていくこともしなくなった。
休みの日に三人でどこかへ出かけましょうかと誘っても、彼はのんびりしていたいからと誘いに乗ろうとはしなかった。
わたしは日曜日には家のことは女中に任せ息子を連れて電車であちこち遊びに行った。


或る日家に帰ったとき、女中の鈴子の姿が見えない。
どうしたの、と彼にきくと、休みをやるから里帰りでもしたらと小遣いを渡したと言う。

わたしの意見も聞かず何故そのような勝手をするのだと憤りを感じたけれど、話しても所詮無駄だろうとわたしは口をつぐんだ。
夫が代わりに子供を見てくれるひとを頼んでいるからと言ったからだ。



女中に休みをとらせてまで何も他の女性を寄こすこともないのにと思っていたら、翌日の月曜日の朝早くそのひとは訪ねてきた。

「この人だよ、しばらくあの子をみてもらえばいい」
その人とはすらりと上背のある長い髪の女、見た目には三十歳は越えていそうな目尻の皺が目立っていた。

随分年増のひとに息子の世話を頼んだものだと思いつつ、わたしはいつも通り勤めに出た。
帰りは6時を過ぎるが、その日は家のことも息子のことも気掛かりで5時40分に家に着いた。

部屋に入ると彼は肩肘をついて座敷に横になり煙草を吸っていた。
その傍で息子は女に絵本を読んでもらっている。

わたしは着物を着たそのひとの裾の乱れとアップに結った髪がいやにほつれているのが気にはなったが、下卑た想像を打ち消すように明るく振舞い、朝の出勤を続けていた。



五章決別

女中の鈴子が三日目に戻ってきた。

最後のご挨拶にと子守りをした女が日暮れ時にやってきた。
丁度彼が家に帰っている時で、まあまあ夕飯でも食べて帰り給えと女を引きとめ、女も彼の言葉に乗って食卓についた。

勤めの帰りに買ってきた魚の切り身は四切れしかなかったけれど、わたしの分を女の皿にのせて勧めた。
夫は魚を肴に一杯やり上機嫌で女を見送って行くと言って立ち上がった。


今日初めて見るかのようにわたしは女の顔をまじまじと真正面から見た。
眉は三日月のように柔らかな線を描き、華奢な鷲鼻が形良くこんもりと盛り上がっている。
薄い唇が紫味を帯びた紅でくっきり縁取りされそのことが女特有のしなやかさに或る決意のようなものが伺えた。

わたしはこの女の薄い唇が彼の分厚い口の中に吸い込まれるのを想像しながら女を見送り、その背に塩でも投げつけたい衝動に駆られた。



息子が小学校へ上がる春、彼が言った。
「あと一人赤ん坊が産まれるんだ。どうする?」
わたしは突然の彼の言葉に呆気にとられて、彼の顔を見ていた。


「どうするかと聴いてるんだよ。子供を認知できるかってことだ」
あまりの身勝手にわたしは談判する前に彼を殺そうと思った。

このまま黙って引き下がる訳にはいかない。
とりあえずどちらかが家を出ることになる。どうしよう。
金も要ることだし、まずは彼の出す条件を聴くことにした。

ー結婚して八年目のことだった。


わたしは東京に嫁いでいる姉に相談した。
実家の兄夫婦の耳には入れたくない。

兄はわたしが駆け落ちした時点で教職を自主退職し、個人経営の事務所に勤めていた。
父親はわたしのことを苦に病んで脳梗塞で半身不随の身。家に篭ったきりなのだ。
これ以上迷惑はかけられない、そのことだけは守らねばと思った。


「僕が出て行くよ」
その晩彼はわたしにそう言った。
「あの子を立派に育ててくれ。二度と会わないようにするからな」
彼はそう言ってその日何一つ持たず出て行った。

弁護士をしている姉の連れ合いが裁判をすれば金が取れると言ったが、教員の身でまとまった金が払えるはずもないと、わたしは要求はしなかった。



--*--

教員生活にも慣れ、わたしの給料もかなり上がっていた。
息子の中学はエリートの学校を受験させた。
同時に子供を産んだ姉の子も受験する年になった。
実家の兄の子は東京の医学部に進学したいので当分世話になるからよろしくと、兄自ら頼んできた。

田舎の小学校の教師をしていた時の女子生徒も頼ってきたので家で面倒をみてやることになった。
周りが急に賑やかになった。



息子が高校へ入学した年に、彼の四番目の妻から彼が死んだと知らせがあった。
葬式の日も知らされたが、わたしは息子を葬儀に出席させる気もなかったし、その後墓参りをすることも赦さなかった。

息子に父親の死を知らせはしたが、自分の目の黒い内は父親の墓参りに行くことはしないで欲しいと伝え、息子も納得した。




六章再会

息子が大学に入った年、わたしは実家を訪ねることにした。
あのとき着の身着のまま飛び出して以来帰っていない実家だ。
息子にも一目わたしの生まれた家や故郷の風景を見せてやりたかった。


兄の家の長男をうちで面倒を見ていたから今までのように兄夫婦に気兼ねすることもなかった。
実家に帰るとき地元の小学校の教え子にも連絡していた。

「えっー!先生帰られるんですか!会いたいです...だったらけいちゃんにも知らせましょうか」
「けいちゃんは今どうしてるのかしら?是非会いたいわ」
「いま私と一緒にコーラスをやってるんですよ」

わたしはあの小さな女の子のことを思い出していた。

うちへランドセルを持って泊まりにきていたけいちゃん。
母親の都合で関西に転校したり、再び連れ戻された時はお母さんの居ない家で頑張って学校に通っていた。
わたしはあの時何も言わず彼と姿を消してしまったのだ。


わたしが居なくなった時あの子はどんなに寂しかったろう。
せめて小学校を卒業するまでわたしが傍に居てやれていたら力になれたろうに。

わたしはけいちゃんに済まない気持ちで一杯になった。
あれ以来あの子はわたしに何も言ってこなかったけど、けいちゃんは学校でいじめを受けていることを聴いていた。
生徒会長をして祭り上げられていたけれど、本当は寂しくて寂しくてたまらなかったであろうけいちゃん。

あの子は誰に頼って生活し、学校ではどんな友達が支えてくれていたんだろう。
関西から戻ると言った時わたしはピアノの先生を紹介してやったけれど、あの中学の校長の娘が転校してきてからあの子は辛い目にあっていた。


わたしはけいちゃんに会うのが怖かった。
責められるのじゃないかとびくびくしていた。
でもやっぱりあの子がどんなママになっているのか、一目会いたかった。



わたしは教え子に言われた町はずれの喫茶店までバスに乗って行った。
人目を憚るわたしへの配慮なのだろう、その店は兄の家からはかなり遠かった。

けいちゃんはまだ免許とり立てだという白いブルーバードに乗ってやってきた。
「先生!」姿かたちは大人のけいちゃんなのに、わたしにはあの頃のあの子と全く変わらない感覚が走った。
「あんた!」わたしは胸が詰まるような気がした。


わたしは今までのいきさつをさらりと二人に話した。
けいちゃんは30を少し過ぎて二人の子の母親になっていた。
今から女盛りの域に入るのだろうなと、わたしはまだ少しあどけなさの残っている童顔のけいちゃんを見ていた。

「お母さんはげんき?」
「はい。母はまだ勤めてるんですよ。朝はわたしが母と子供を車で送って行きます」
「あら、そう。で、ピアノはどうしたの?」
「ピアノ科には入学したけど身体を壊して休学したままでとうとう行けませんでした。そのあと別の学校に入って今は塾をしています」

「あ、そう。忙しいわねぇ。でもお母さんが傍にいらしていいわね。わたしなんか実家に不義理しちゃって。とうとう父の最期もみれなかったわ」
「....」
「あんたも東京に遊びに来なさいよ、いつでも迎えに行くから」
「はい。いつか行ってみたいですねぇ」

わたしは予定していた時間が来たので思うようにはゆっくりもできず、名残り惜しそうな二人を跡に兄の家に戻った。けいちゃんはやっぱりわたしの妹のような存在だとそのとき思った。



七章けいちゃん

息子は大学の理工系を専攻したが、オーケストラの部活で音楽も続けていた。
わたしは四年間毎年そのコンサートを聴きにいくのがうれしくて、息子の演奏する姿を見るのが誇らしかった。
けいちゃんにも是非聴きにきて欲しかったけど、あの子は家のことがまだ手が掛かって状況は無理のようだった。

息子は大手の外資系の会社に就職し、海外出張も多くなった。
幸せなことに同じ会社の頭の良い嫁が来てくれて、賢い彼女は何一つ私に逆らうことなく家庭に波風が立ったことはない。


男の子の孫が二年ごとに生まれ、わたしはママの手助けで奔走した。
幼稚園やピアノのお稽古の送迎もやった。
孫が小学校に入るとわたしは三人の孫達の家庭教師の役も回ってきた。


その頃けいちゃんの子供が東京の大学に入学したと連絡してきた。
それもわたしの息子と同じ大学の文学部というのがうれしかった。

5月の連休にけいちゃんが上京したとき、わたしはけいちゃんを家に誘ったが、けいちゃんは近くのホテルに泊まった。
息子の車で繁華街に出て食事をしただけのことだったので物足りない気持ちで別れた。
けいちゃんは二人の子が東京の大学に入ったので叉きますと帰って行った。



その三年後、息子は二年間の契約で米国に転勤になった。
嫁と孫三人つれての外国生活でわたしは心配したが、息子の方もお母さんを残していくのは心配だと一週間に一度は必ず電話をしてきた。


けいちゃんの子供の大学の学部の卒業式の日。
大学院へ進むとのことで引越しはなかったが、式に参列した翌日、けいちゃんはとてもうれしそうにわたしに会いにきた。

二人きりの二泊三日はとても幸せな気分だった。
一緒に箱根に一泊し、あの頃と同じようにふたりで宿の温泉に入り、背中を流し合った。


三月の終わりで天気が悪く富士山がみえないのは残念だったが、三途の川のセットや箱根細工の見学などして、けいちゃんはとても喜んでいた。
五月の新緑の頃また来ようと約束した。



次の年わたしは息子の居る米国に遊びに行き、孫たちと共に暫く暮らした。
息子が家族みんなを方々へ案内してくれとても楽しく過ごした。

ただ近所の公園に孫を連れて行ったとき、現地人と日本人は交われないんだなということを実感した。
でもとにかく元気で幸せな気持ちで帰ってきた。



その次の年には息子の家族が帰国し、一緒に里帰りした。
けいちゃんがうちに泊まるように言ったので二泊した。
けいちゃんの車に乗って南の小島にある海中公園に行き、遊覧船に乗って海底で珍しい魚が泳いでいるのを見学した。

けいちゃんの家の庭には春の花が咲き乱れ、お母さんもお元気そうでわたしの来訪を喜んで下さった。
でも高齢なのでこの出会いが最後になるのだろうと思いながら別れた。



最終章

けいちゃんと暫く会っていない間にわたしの三人の孫はどんどん大きくなり、3人共1m90cmを越えている。
何しろ食費は驚くほど出ていく。生活費が膨らんで息子の給料もいいのだけど、わたしも極力援助してきた。
見晴らしの良い高台に土地を買い二所帯住宅の家を建て、ここまで苦労してきた家を引き払って引っ越した。



けいちゃんは時々電話をくれる。
あんたは妹みたいなもんよ、わたしはいつもそう思っている。

わたしが大男の息子と孫に囲まれて何の心配事もなく暮らしているので、けいちゃんはわたしのことを幸せな人だと言う。
あと何年生きれるのか分からないけど、今はまだコーラスの仲間と歌ったり絵手紙を習いに行ったりする体力は残っている。いずれは何らかの形で家族に迷惑を掛けて死ぬのだろう。

もう一度けいちゃんに会いたいけど、わたしには実家に帰る体力が無くなった。
けいちゃんの方から会いに来てくれたらいいなと思う。

この間家族旅行をしたとき、みんながけいちゃんの家に立ち寄って顔馴染みになってるからうちに泊まってもいいんだよ。
けいちゃんはわたしのいもうと・・・しあわせに暮らして欲しい。
どんなことがあっても頑張って私よりずっとずっと長く生きてもらいたい。


         

               了