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2012. 09. 18  
その1

わたしの名前は氏家鞠子。
これから昔むかしの記憶を紐解いてふしぎなお話をお聞かせしましょう。

私が梨子さんと出会ったのは大学に入学した初め頃でした。
18歳の時音大のピアノ科を目指していましたが、突然の病に倒れ、その後数年経って実家から近い大学の英文科に入学しました。

最初借りた家は市内の大通りにあり、神経がまだ過敏だった私は車の騒音で眠れなくなりました。そこで入学早々一時的に近くの病院へ入院し、大学で知り合ったばかりの女性に電話して次の貸間を探してもらうことになったのです。


その時に私が一間借りた家の娘梨子さんのことに少し触れてみましょう。

梨子さんは1m60cmほどの身長で丸顔、黒目がちの瞳、明るくて温かい雰囲気の女性でした。会った瞬間からお互いに好意を持ち、私達はすぐに親しくなりました。私より一つ年下でしたが数年前に同じ大学の短大部を卒業していたので私よりずっと大人びていました。


その家には私の他にもう一人、下村さんという女性が部屋を借りていました。
下村さんは学部を卒業した後も礼拝のオルガニストとして居残っていて、毎日大学へ通っていたようでした。

度の強い眼鏡をかけ、いかにも神経質そうな顔つきをしている彼女は年齢よりはるかに老けて見えました。初対面の時から私は下村さんに違和感を抱いていましたが、彼女には色々な面でお世話になりました。

まず長い間離れていた勉強だったので、当初から英語ばかりの授業に戸惑い、誰か教えてくださる人はいないものかと相談したとき、韓国人の男の先輩を紹介してもらいました。
その後学校側に交渉して私をチャペルの奏楽者の一員に加えてもらえるように配慮したりして下村さんはそれなりに私に誠意を尽くしてくださったのだろうと思います。


でも、わたしには一つ嫌なことがありました。
それは梨子さんのことを色々と私に告げ口をしてきたことです。
私にとってはそのことがとても不愉快でした。

梨子さんはくったくがなく気軽に私の部屋にきて、私が予習をしている傍で寝っころがってくつろいだりしていました。
「鞠子さんは勉強家やなあ、いつ来ても勉強してはるわ」といつもそう言いながら、さびしがりやの私を勇気付けたり笑わせたり・・

下村さんがどんなに梨子さんのことを悪く言ってもそれは私の頭を素通りして、私は梨子さんとは親しくしていました。同級生はかなり年下だったので、梨子さんの存在は私にとってはとても心強いものだったのです。
梨子さんは定職には付いていなかったようですが、時々家を空けて出かけることがありました。
彼女の母親である家主の女性は元教師ということでしたが、私が入居した時には退職していていつも奥の部屋に座っていました。梨子さんとは義理の間柄だったらしく、母子の仲は微妙でした。


その2

そのころ私は体が弱かったので、学校の勉強をするだけで精一杯でした。
部屋にはいつも布団を敷いていて、時々横になって休みながら勉強をする状態だったのです。

翌日の予習をしていないと全く講義が理解できないので、知らない英単語の意味と発音を辞書で調べたり、翌日の予定のページの内容のあらすじを把握して講義に出ていました。

いつものように梨子さんが私の部屋に来て、すばやく私の布団の中へもぐりこみました。
「鞠子さんも寝えへんか、こっちへ来てみ」と私を誘いました。
その年代の女の子同士は他の友人でも一緒にお風呂に入ったり布団に入って話したりしていたのです。

私が梨子さんの傍に横になったとき、梨子さんは「こっち向いてみ、わたしどっちでもええねん」何のことだろうと思いましたが、ちょっと不審な気がしたので私は勉強を始めるふりをして起き上がりました。でもそのことは何のことはなく、私達は夕方散歩をしたり、いつもどおり部屋で話したりしていました。


一方で、下村さんは私が梨子さんと親しくなるのがやりきれない様子で、次第に私を追い詰めてきたのです。有ること無いことを大学の先生達や友達に振れ周り、入学早々私は先生方の注目を浴びるようになりました。

体育の先生は妙に優しくなり、言葉をかけて下さるようになりました。
下村さんの上司である年配の女性の教授には私も宗教学の授業を取っていたので気を遣っていたのですが、この先生も次第に私を個人的にいたわりの目で見て下さるようになりました。

法学の先生には研究室に掃除に来てほしいと頼まれ「君。下村さんと何かあったんだってね」とおっしゃいましたので、何か聞いておられるんだなとピンと来ました。

「は?はい。まあ・・」とそれぐらいしか答えることはできませんでしたが、先生はそのことについてもっと聞きたいような顔をしておられました。

下村さんが学内でどのように私のことを話しているのか実情はわかりませんでしたが、先生方が私に好意をもって下さるその理由は納得がいきませんでした。
私は勉強をして通学するのさえやっとなのに、入学早々飛んだ災難に会ったという感じでした。


その3

梨子さんと私は夕方になると散歩をしていたことがありました。
そのころ何かの記念に大きな小判ほどのメダルが市販されていて、私はそのメダルを誰からもらったのか忘れたけれど、一つ持っていました。

「そのメダルちょっと貸してみ」と梨子さんに言われて私はメダルを渡しました。
話に夢中になっていたのでメダルのことはすっかり忘れていましたが、後になってメダルの事を思い出した時には、メダルは私の手元にはありませんでした。



大学では休みがちな私も一定の体育の単位を取らなければいけませんでした。
正規の授業を休んで足りない分、プレイデーとして山登りやソフトボール、水泳などに参加すればまとまった単位を取ることができました。

水泳の授業を受けることになったときのことです。
私は水着と赤と白の縞模様の大きなバスタオルを買いました。
その授業を終えて家に帰り、水着一式を玄関の上がり段の隅に置いた記憶があり、そのことを後になって気がついた時には手元にありませんでした。



或る晩、下村さんが薄暗い土間にある五右衛門風呂に入っていたときのことでした。
梨子さんと私はよもやま話をしながら、焚き口に薪をくべていました。

或る日私は一枚の紙切れが風呂場の前の土間に落ちているのを見つけました。
大学の誰かに渡そうと思って書いたであろうと思われる下村さんのメモでした。

そのメモには私と梨子さんの名前が書かれてあり、私たち二人が釜の火をどんどん焚いて自分を焼き殺そうとした、と書いてありました。
彼女は怒りのあまり妄想の域に達していたと思われます。


その4

そういうことが重なって気味が悪くなった私は急いで別の貸し間を探すことにしました。
そのころは不動産で部屋探しをするということもなく、知合いに頼んで部屋を見に行き承諾してもらえたら借りるという状態でした。

何の心の準備もなくあたふたとその家を出ることになった私を手伝ってくれたのは、その頃仲良くしていた正子さんでした。二人で荷物を一気にまとめ、誰も居ない時間帯を見計らって引越しました。

引越した先の家は80歳前のお婆さんが独りで住んでいました。
「台所使ってもええからな」と言われ、私は自炊をすることになりました。

大学に入る前に私は栄養学校を卒業していたので自分の食事を作るには困りませんでした。
毎日私が食事の支度をしに台所に立つと、お婆さんが出てきて「何作っとるんや」と覗きに来るので、必ず一皿お婆さんにもあげることになりました。


そそくさと出てきたあの家の梨子さんとは繋がりを持っていたので、或る時彼女が勤めているという会社を訪ねたことがありました。
その時彼女から一枚のレポートを見せられ「これ、英訳してくれはらへん?」と言われて持ち帰り、専門用語の単語を引きながらやっと出来上がって持って行きました。
後で聞いた所によると、その英訳は無茶苦茶だったらしく役には立たなかったそうです。


その5

お婆さんの家にはもう一人、工場に勤めている数子さんという人が隣の部屋を借りていました。とても気さくで気持ちよくつきあうことができました。

他に部屋だけを借りて時々休みに来る会社員の男の人もいました。
その人は私に次々プレゼントをくれていたので、母が来たとき、それ相応のお返しをしたようでした。
それ以後はプレゼント攻めに合うこともなく、何事もなく過ごすことができました。


数子さんがある男性とのことで大変な思いをして、夜逃げ同然の引越しをしたのは一年ほど経ってからです。
夜中に両親が来てトラックで荷物を運んで実家に帰ってしまいました。
その後に一人残った私はお婆さんの関心の標的となり、又厄介な事態になりました。

お婆さんは何もかも私に頼ってくるようになりました。
そればかりか私のことを何かとふれ回るようになり、そのことが私の耳にも入ってきました。
お婆さんの束縛に怖くなった私は一年先輩の知合いに頼んで、彼女の近くのアパートに入居することになりました。

ところがここでも大変な事態に遭遇したのです。

私は勉強以外にはすることもなく病身とあって、夜は九時過ぎに寝る毎日でしたが、隣に部屋を借りていた女子学生が毎晩夜中の2時に友達を数人連れて帰ってきたのです。
その度に目が覚めた私はここでも眠れなくなりました。

その学生は小柄な色の黒い、どうみても美人とは縁遠い子でしたが、人当たりの良いキャラで人気があったようです。一緒に騒いでいる連中は良い人ばかりではありましたが、私としてはこれでは身がもたなくなると思い母に相談した所、自分の友人に手紙を書いてくれました。

その方は独りで医院を経営しておられました。
私は大通りに面した診察室の二階の六畳間を貸してもらえることになりました。

引越しの時は、騒音を撒き散らした隣の学生軍団が総出で手伝ってくれたことには感激しました。騒音には耐えられるようになっていた私ではありましたが、卒業までの二年間をそこに居つくことができました。


その6

梨子さんがその部屋を訪ねてきたのは、引越しをして間もなくのことでした。
大学三年生の時は四年間の中でもっとも苦しい一年でした。

初めは一人で借りていた二階でしたが、軽音楽部で知り合った西本さんが家を探しているということで、隣の部屋を貸してもらえるように頼み引っ越してきました。
大柄で色白の彼女は入学時のおかっぱ頭の女の子からすっかり素敵な女性へと変身していました。軽音楽部で披露するときにはハワイアンのドレスを着てウクレレを弾きながら歌いました。

彼女からギターの手ほどきをうけて私もコードを覚え、夜になると二人で裏のベランダで色々な曲を口ずさみながら弾き語りをしました。
夕方には一緒に田圃の道を散歩したり銭湯に行ったり、彼女とは一度もトラブルもなく楽しく共同生活ができました。
その他で授業が一緒の友人は学部に編入した4人だけだったので密な付き合いをし、微妙な所でストレスを感じながらのしんどい生活でした。

そんな折、梨子さんが訪ねてきました。

彼女は恋人ができたとうれしそうに報告しとても輝いていました。
相変わらず優しくてゆったりとした雰囲気でした。
私も再会できたことをとてもうれしく思いました。

しばらく話した帰り際に「明日の夜、家へ来いへんか」と言い残して立ち去りました。
夜にわざわざあの家まで行くのは私にとってはあまり気の向くことではなかったので、迷った挙句とうとう行きませんでした。

梨子さんと約束をしていたことが気になり、翌朝早くに彼女の家を訪ねました。
今まで入ったことがない裏口から彼女の部屋に入りました。
私がその家に居た時にはそういう部屋があることには気がつきませんでしたが、広い畳の部屋でした。

部屋に入ると、まだ布団が敷きっぱなしになっていて、布団の上には脱いだパンティが投げ出され、卓上には飲みかけのグラスが置きっぱなしになっていました。

私は見たこともない意外な光景に唖然としました。
夕べこの部屋で何があったのだろう。
ぼんやりした私にもおおよその想像はつきました。
もし私が昨夜ここへ来ていたら、どうしようと思ったのだろうか。
この家に来ていたのは彼女の恋人だけだったのか。
私までも経験したことがないようなことを強いられていたのではないだろうか、と思ってしまいました。

そのことがあって以来、私はその家を訪れることもなく、梨子さんと会うことはありませんでした。


その7

卒業間近になってご挨拶に伺った時、家主のお母さんがいらっしゃいました。
梨子さんは結婚してアメリカに住んでいるということでした。
素敵な彼女のことだから、ご主人とアメリカで幸せに過ごしているのだろうかと想像しながら帰ったのが最後の思い出となりました。

後から思えば、クリーニングに出していたジャケットが梨子さんの箪笥から出てきたこと。
水着とバスタオルが姿を消したこと。
預けていたメダルが消えたこと。

下村さんが口走っても私は信じていなかったこと・・それは時々遠くから電話が掛かると出かけて体を売っていたということ。
自分には信じられない彼女のブラックゾーンがおぼろげに分かったような気がしました。

でも彼女は私を前にして少しの濁りも見せず、いつも優しい笑顔で励まし続けてくれました。
私は彼女がこの世のどこかで幸せに暮らしていることを今でも想像しています。
幼くして母親を亡くした梨子さんの哀しい生き方だったのかもしれません。

                

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2012. 08. 08  
その1

日中のうだるような熱気がおさまりつつある午前零時、葵のマンションの戸を遠慮がちにコツコツと叩いてタキがやってきたのは去年の夏の終わりだった。

帰宅してシャワーを浴びたあとガウンに着替えていた葵は、真夜中の音に不審を抱きつつ、鎖をつけたままのドアから外を覗き、そこに呆然と立っているタキを見たのだった。
葵がドアの鎖をはずしてドアを開けるや否や、タキはなだれ込むように中に入ってきた。

「どうなさったの?ただ事じゃないわね。さあ、靴を脱いで上がって・・」
葵はタキの体を支えるようにして奥の寝室へといざない、セミダブルのベッドに横たわらせた。


ベッドの上で少しすすり泣きしているらしいタキをそのままにして、葵はそっと部屋を出て隣のリビングの棚から純米酒を取り出した。
葵は最近ワインより清酒に凝っていて、女性ファンを目当てに売り出されるカラフルな壜の酒を好んで買っている。タキが人心地ついたら一緒に飲めるように、小ぶりのガラスの猪口を二つソファの前のテーブルに置いた。


今日の仕事は外周りもありいつもより忙しかった。
葵は相当疲れていた。
九時を過ぎて、退社し電車で家に着いたのは10時を過ぎていた。
タキがやってくるまでの葵はほっとしてくつろいでいた。

シャワーで汗を流した後、朝出かける前に作り置きしていたベーコン入りグリーンサラダとカリカリに焼いたフランスパンを二切れ食べた後、コーヒーを飲みながらインターネットのお気に入りのサイトを開けてフレンドたちと交信していたのだ。

葵のハンドルネームは「スカーレット」。

=こんばんは、スカーレット、ご機嫌はどうだい?
=おかえりなさい、お時間取れたら私の話きいてね~
フレンドたちからいろいろなメールが入っている。

=よおっ。お疲れさま。今日はだめかな?

信也からのメールだ。
ハンドルネームはあるけれど、付き合って一年を過ぎたあたりから信也とはお互い本名で話をするようになっていた。電話でも話をするが、葵が帰宅する頃にはいつも・・お疲れさま~のメールが入っている。
葵は現実とは少し別の雰囲気を文字で演じているので、ネットでは華やかな存在なのだ。



しばらくしてタキは気分がよくなったのか、葵のいるリビングに入ってきた。

「あ、落ち着いた?」
葵はパソコンの手を止めてタキの方を振り返った。

「ごめんなさいね。急に押しかけたりして。葵さんも疲れてたんでしょ」
「ううん。いいのよ、そんなこと。落ち着いたらお話きかせてもらっていいかな?」
「ええ。でもみっともなくって、ちょっと恥ずかしいわ」

「別に無理に話さなくてもいいのよ」
「捨てられちゃった!もうゴールインかなって思ってたのに」

「ん?タキさん、そんな人いたんだ」
「いろいろ相談してた人。話をきいてもらってる内に親密になっちゃって」

「それで?」
「もうほとんど家族みたいな気分になってたの。でも最近電話しても出ないし、全然連絡とれなくて・・連絡が取れなくなってもう3カ月経つの」

「そりゃ、ショックよね!」
「もう、半分諦めてるけど・・」

葵は何と応えていいか戸惑っていた。


その2

タキは今のアルバイト的な仕事をやめて資格試験でも受けて正社員の職につきたいと思っていた。葵が税理士としてバリバリ働いているのを目の当たりに見て焦りを感じた。

暫くここに置いてほしいの、というタキの強引な頼みを快く受けて、葵は昼間の部屋をタキに開放して出勤していた。
タキは葵に入る留守電の声を全部聞いた。
ほとんどが簡単な伝言で個人的な秘密めいたものは一切なかった。


夕食は一緒にしようと言い残して朝葵は家を出るのだが、帰りの遅い彼女を待つ身のタキは八時ごろになるとお腹がすいて我慢できなくなる。
冷蔵庫を開けると特製の柔らかそうなハムや珍しいチーズ、それに野菜と果物がたっぷり買い揃えてある。棚には洒落た壜の酒とワインがずらりと並んでいる。
タキはあれこれ眺めているうちに知らぬまに手が延びて、ワインの栓を抜きハムとチーズを食べていた。一度手をつけるとやめられない衝動に駆られた。


腹が満たされると次は洋服ダンスを開けてみる。
オフィスレディとして揃えられた地味ではあるが高級なスーツの数々、カラフルなシャツとカットソーは見ているとタキはよだれが出そうだった。

引き出しを開けるとスカーフがきっちりたたまれて並んでいる。
タキは思わずその一枚をとりだし襟元に巻いて洋服ダンスに備えつけの鏡を見た。
もう一枚、巻いてみる。

鏡の中の自分がにっこり笑ってうれしそうだ。
葵の生活空間の中にすっぽり包まれたこの幸せな仮の空間に身を置くタキはときめいた。


その3

タキがふかふかのソファに座りコーヒーを飲みながらテレビを見ていたとき、葵から電話がかかった。

「今日はいつもより遅くなるの。悪いけど先に食事して休んでて」
「ええ、いいわよ。ごゆっくり」

うーん、と背伸びしてタキはソファにごろんと身を横たえた。
他人の部屋にしてもやはり主のいない自由は格別だ。

10時までテレビを見た後、タキはシャワーを浴びる為に浴室に入る。
洋ダンスの引き出しから葵のもう一枚のブルーのガウンを持ち出した。
シャワーをやや熱めの湯に調整して、頭から体、脚へと泡粒の湯が通り過ぎる毎にタキは身をよじらせながら心地よい快感を味わっていた。

この間まで自慢だった手入れの行き届いた長い髪は、彼への思いを断ち切るように肩までカットされ手入れがやりやすい。
タキは浴室から出てからも噴出す汗をぬぐいながら、焦ったように時計を見た。

ーえっと、何を食べよかな。
作るの面倒だな。そうだ、この間葵さんが注文していたピザの店のナンバーが残ってるはず。
卓上の電話のディスプレイをみたらやっぱり残っていた。
タキは葵の名前で特大のピザを注文した。
葵が帰ってきたら半分は食べるだろうと思ったからだ。

30分後にピザ屋が大きなピザを届けにきた。
タキは冷蔵庫からミルクを出しコップになみなみとついで食べ始める。
11時からはテレビの鉄道の旅が始まるはずだ。


その4

午後11時半。葵はまだ帰宅していない。

りり~ん!
電話がなった。

ー葵さんからかな?
そう思いつつ、タキは受話器を取った。

「葵さん、もう帰ったかな?」
低音の、それでいてソフトな男の声だ。

「えーっと、あの・・」
「葵さんじゃないの?」
「はい。わたし居候で・・」

じゃあ、叉あとで、といって電話は切れたが、その心地よい声はいつまでもタキの耳から離れなかった。
タキは電話のディスプレイに残されたその番号を見た。


その5

葵はその後一週間ほど帰宅が遅い日が続いた。
会社では個人的なメールをする時間がないほど忙しく信也への連絡は途絶えていた。

一方タキは葵のマンションで一人で過ごすことに少々退屈していた。
かといって資格試験の準備を始めるでもなく、只いたずらに日が過ぎていくことに焦りも感じていた。

そんな空虚な毎日を送っている内、電話のディスプレイに残されている信也の番号がいやに気になり始めた。
タキは思い切って受話器を取り、信也からの電話番号をこわごわ押してみた。

「はい。信也です!」
この間初めて聞いた信也の快いあの声が返ってきた。

「あの・・葵さんのマンションに居候しているタキと申します」
「あ、この間電話に出た方ですね」
「・・・葵さんから伝言を頼まれたもので・・」

いくらメールをしてもレスがなくいらいらしていた信也にとっては、待っていたその情報に飛びついた。
「えっ。伝言って何ですか」
「明日の日曜日にですね、信也さんがもしよかったら前の公園でお会いしましょう、とのことでした。葵さんは必ず行って待ってるそうです」
そう言った後、タキはまるで犯罪を犯しているかのようにびくびくしながら急いで受話器を置いた。


その6

タキは葵が翌日の日曜日も出勤するというのを聞いていた。
9時までには出勤しなくちゃと言っていた葵の言葉を思い出して、信也との待ち合わせの時間を10時半に指定した。

ウィークデイと同じようにその日の朝家を出る葵を玄関先で見送ると、タキはほっとした。
洋服ダンスを開き、花柄のワンピースを当てて全身用のミラーに写してみた。
後ろ姿をくるっと回って見たとき、フレアーのスカートがふわりと膨らんだ。
長身のタキは葵の洋服を着るとスカート丈はミニになるが、他のサイズはほぼ合っている。

次はタイトスカートをはいてみた。
こんもりと引き締まったヒップにきつめのスカートがぴたっと張り付いて、いかにもセクシーな外国の女優のようだ。

うん。これでいこう!
上着は配色を考えて胸の開いたカットソーを選んだ。
色白のタキはファンデーションを薄めにし、けだるいパープルのルージュを唇からはみだし気味に塗った。

予告していた10時半に合わせて、少し早めの10時10分にマンションを出て指定した公園の入り口で信也を待った。


その7

指定の時間きっかりに信也らしき人物が公園の前に来て、タキを見つけると笑顔で近づいてきた。
「あの、葵さんですね?」
「ええ、はじめまして、葵です」とタキは初対面の挨拶をした。

信也は葵と1年以上も付き合っているのだが、会ったこともなく写真の交換をしたこともなかった。
「電話で話す声よりトーンが低いですね」
「あら、そうかしら」

「今日はどうしますか?」
「そうねえ、この先に海があるのじゃないかしら。ほら、遠くに見えてるじゃない?」
「そのようですね。葵さんはここら辺りの地の利には詳しいんでしょう?」

「あまり外を歩かないんで、それほどには・・」
歩きましょうかと信也に促されてタキも並んで歩いた。

電話で話していたとき、確か自分よりずっと背が小さいと言っていたような記憶が蘇ったが、傍に美しい女性がいるのだから信也にとってはそのようなことはどうでもいいような気がしていた。


「ね、今日は遅くまで一緒にいられるのでしょ?」
信也は電話で話している葵はやや消極的な女性のような気がしていたのに会ってみると意外に積極的なんだな、やっぱりネットってイメージとは違うんだ・・そう思いながら信也の腕に自分の腕を絡ませて頬をすり寄せて歩くタキをみて憎めない気持ちだった。

遠浅の浜辺でひとしきり二人ははしゃいで遊んだ。
タキのミニスカートからちらちらと覗くすんなり伸びた白い脚の上の太ももが信也の胸をときめかせた。


ふふふ・・タキの毀れるような笑顔が何ともキュートだ。
信也は彼女を思いっきり抱きしめたい欲望が湧いてきた。

「葵さん、こっちへきて!」
タキが砂に足跡をつけながら信也のところまで転ぶように走ってくる。

信也は彼女の体をずしんと受け止め、顔を両手で掴んで押しつぶすように唇を吸った。
タキはこのことを待ち受けていたかのようにしなやかな肢体を信也に預けた。

辺りに人影もなく、信也はタキを砂浜へ横たわらせて顔を覆いタキの背後に手を回した。
タキの吐息が次第に信也の耳元で激しく燃えていくのだった。


その8

―タキが葵のマンションから消えて、1年と3カ月がすぎた。

その間葵は事務所の方が以前にも増して忙しくなっていた為、ネットでのんびり遊んでいる暇はなく、家に帰ってひと息つくとすぐにベッドに潜り込むような日々を送っていた。

たまにお気に入りのサイトを開くと、「スカーレット!メール待ってるよ」と呼びかけるメールが沸くように来ていたので、信也のメールを探す気力もなく、かといって葵の方から信也に電話をかけることもなかった。

事務所の所長は5歳年上の女性、夫の後押しで事務所の経営は順調だったが、葵のてきぱきしと仕事をこなす才気にかなり助けられていたので葵の存在は大きかった。


「葵さんと共同経営できたらいいわね」
独立する意思のない葵は所長の提案をさりげなくいなしていたが、所長の方は独身の葵が結婚という安定した状況に落ち着けば事務所の経営者としての手腕を発揮してくれるかもしれないという密かな願いを抱いていた。

で、四月に入り事務所の新入社員を募集するに当たって、心中或るもくろみを持っていたのだ。
大学院を卒業後2年間の商社マンの経歴を持つ若い社員を採用したのも、もしかして葵に相応しい相手かもしれないとの思惑があったからだ。
仕事上は葵の方が先輩だが年齢としては葵にはお似合いの青年だ。
早速新入社員の辰雄に入社早々葵のアシスタントとして外周りを担当させた。



葵の事務所の休日は土曜日と日曜日だが、確定申告を控えた1月末から3月初旬にかけて従業員は土曜出勤も余儀なくされた。
3月15日の申告の締め切りを過ぎると所内はほっとくつろいだ雰囲気が漂う。

「みんなで飲みに行こうか」と所長がいえば、「所長のおごりですか?」
葵は茶目っ気たっぷりに所長の財布の紐を緩めさせる。

「そうよ、辰雄クンも一緒にいこ!ねえ、辰雄クン、だいじょうぶ?待ってるひととかいないの?」
所長はそれとなく辰雄の身辺伺いをする。

「よろこんで行かせてもらいますよ。葵さんと一緒なら。あっ、悪いこと言っちゃったかな。ご馳走してもらう方に申しわけないです」
「いいの、いいの。だいじょーぶ。葵ちゃんはいいもんね。私も好きだよ。辰雄くんも好きだよね、葵ちゃんのこと」

「は、はい。好きです」
「あー、赤くなってる。白状しちゃったねー」
「いや、あの・・所長は悪ふざけがひど過ぎますよ!」
所長と辰雄が勝手に冗談を言ってる脇で、葵は二人の会話を馬耳東風とばかり聞き流して歩いていた。


その9

或る土曜日の夕方のこと・・

葵のマンションのインターフォンが鳴った。
今日あたり実家の母が来るのかな、と期待していた葵はいきなりドアの戸を開けた。
そこに立っていたのはまぎれもなく2年前に行方をくらましたその人、タキだった。


目が合うや否や、タキは葵に向って丁寧に頭を下げた。
とはいえ、片手には坊やを抱っこしている。

葵は呆気に取られて何を言っていいかわからなかった。
「ま、入ってちょうだい」
「すみません、のこのこ出てこれた分際ではないんですが・・」
「そんなことより、さ、上げって!」

タキに抱かれている坊やは生後一年にも満たないぐらいの目のぱっちりした可愛い子だ。

「タキさん、結婚してたのね」
「実は・・・事情があって入籍はしていないんですけど。私、今この子育てられないんです。葵さん、暫くこの子を預かってくれませんか」

「預かるったって・・」
「ほんの数日でいいんです。すぐに迎えに来ますから」

唐突なタキの申し出に葵が戸惑っていると、赤ん坊が急に泣き出した。
葵は不慣れな手つきで思わず赤ん坊をタキの腕から抱きとった。

「ここにミルクの缶と哺乳瓶とオムツと服を入れていますので」
葵の承諾の返事を待とうともせず、タキは怯えるような顔つきでママバッグをフロアーに置くと、じゃあお願いします。すぐに引き取りにきますので・・・と、赤ん坊の方を振り向きもせずタキはドアを開けて走り去った。


その10

腕の中の坊やを見ていると、邪気がなくて可愛い。
―この子を警察に届けるなんて考えられないわ・・それにすぐに迎えにくるとタキは言ったし。暫くの間ぐらいなら何とかなるかも・・

葵はミルクを作る湯を沸そうとやかんに水を入れ火にかけた。
ママバッグからミルクの缶と哺乳瓶を取り出した。
ーお湯で溶けばいいんだわ

ママバッグの中身を確かめてみる。
オムツとオムツカバーの他に、小さな肌着とクリーム色とブルーのカバーオールが入っていた。

小物入れも入っている。
開けてみると、母子手帳とへその緒の小箱もあった。

どうしてこんな物が入ってるんだろう?
葵は見たこともない物ばかりなので不審に思った。

母子手帳の赤ん坊の名前欄には「信也」と記載されていた。
えっ、信也って・・

保護者の欄をみた。
母親の名前が葵。

何なの、これって!

タキの名前はどこにもない。
父親の名前もなかった。

「私生児」・・の文字に葵の目は釘付けになった。